カツ丼屋すたどんすた

産業廃棄物同然の生活を行っていると精神が下降してきた。兆候は減ってはいるものの多いのは困る。困るので日記を書く。

正月の賑わいの底には大晦日に友達と見た『四十歳の童貞男』のよさがまだ染み付いていて、神社の境内をくぐるときにもアクエリアスの時代なるハッピーなミュージカルの残響が腹に染みている。お神酒を百円で買って、一息に飲み干すも、胸のオリっぽいしがれた感じは消えない。寝不足。午前三時くらいなのに、人いきれのやたら多い元旦の道は好きだ。嫌いだったことも思い出してみるとそれほどなかった。帰りしなに弟の話をされたので数回ばかり憎しみを泡立たせて、つま先立ちで大吉を握っていった。浮かれ上がっている人間を見ると途端にマシンガンとかチェーンソーとか思いつく限りの残虐な武器で残虐に殺そうと思うことが少なくなったのは、おそらくその憎しみが実を結ばなかったせいだ。もっともそれが実を結ぶとはとうてい思えないが。自分の肉体から剥離していく思春期とカッコ付きの名詞を取り出して、眺めてみたものの、別に完全に消えたわけではなくて不安なんぞ当たり前に、先週のゴミを出すのも忘れているとまた部屋は汚くなるし、部屋が汚い人間はそもそも救われることを許されていないし、そもそも救いがほしいのかほうらというような口調は俯瞰するにキツいものがあるから中絶(投稿後付記:そういえば昨日『デスペラード』を見ていて、バーに散らばった死体でグッチャグチャの床をマフィアの下っ端がモップで拭いているシーンが堪らなく沁みた。アントニオ・バンデラスが好き勝手ドンチャカやってタランティーノが脳漿をトイレ裏の小部屋で撒き散らしていても、やはり掃除はしないといけないのだ。あの下っ端たちが掃除をしなければ、世界は瞬く間に死体まみれになってしまう)

ラブクラフトは人間の根源的な感情は恐怖だと言い、ハイデガーは不安だと言ったが、マイナスの幽体がのべつくまなく這いずって台所を汚していくのはかんべんして欲しいし、それこそ光あれの状態だから俺はアウグスチヌスを支持する。がんばれアウグス。ただオイディプス・コンプレックスから副次的に発生する女が欠損を謂するアレ(アレだよアレ)をいま思い出して、そしたらそういう感じなのかなとか思っている。しかしスタミナ牛丼が食べたい。コンビニのゴミを咀嚼するのはなかなか堪える。炊き出しが近づいてきている。マッハで。群れをなして。人間を見たいという気持ちはそれほどない。妊娠検査薬の結果待ちのあの恐ろしいひととき。飯が三度喉元を通らなくなるような心持ち。既存の設定を集めてパッチワークして人間らしさが形成されていくような気がする。二日目の鍋。三日目は白菜が切れて中断。コンソメリゾットに挑戦。ゴミ。豆腐クリームパスタに挑戦。無理やり食べたけどゲロの味がした。鶏もも肉の白ワイン漬け。白ワインはそもそも適していないしいっそフリカッセにするべきだった。リエットは企画段階で挫折。鶏ハム言わずもがな。

振り袖を着ている人間をたくさん見て去年はヤスタカのタダイベント楽しかったな、と思った。等しく午前三時に、親父のポール・スミスのジャケットに、くりくり巻いた頭を震わせながら、新成人団体を見ながらコンビニの前でカップ蕎麦を啜った。恨めしいという気持ちもなかった。ただ漠然とうらやましいなあという気分だけあった。渋谷は寒かった。去年はところどころで渋谷にお世話になることが多かったと思う。渋谷は、俺の吐瀉物と盗まれた金と飛んだ記憶を抱きしめて寝ているに違いない。金だけ返してほしい。

ピーター・ブルック『バトルフィールド』のジャンベがヤバい

 新国立劇場、開演は七時ごろ。初台駅に着いたあたりですでに道ができはじめていて、初めて行ったのだけど新国立美術館と同じようにどうやら地下鉄の駅からそのまま行けるらしい。演劇は高校のときに地元の高校生が文化コンクールみたいなので寺山をやっていたのくらいしか生で見るという機会がなかったのだけど(いま大学の文化祭で演劇サークルの劇を見たのを思い出した)、ピーター・ブルックもやたらお年を召されているのでこれは見なければという必要性が生じた。そもそも、バガヴァッド・ギーター経由でマハーバーラタを知り、ブルックについては「マハーバーラタを九時間ぶっ通しでやったイギリス人のおじさん」という認識しかなかったので、いま衝動買いした公式パンフレットでその軌跡を見ているところ。会場である新国立劇場コルビュジェめいたピロティ構造の、端的に言えばチョーイカす建築物で、地下鉄のエスカレーターから吹き抜けになった地下階と泉が見えるのがアツい。銘打ちのフォントも美しい。入った瞬間に見える階段のなだらかな勾配がすでに舞台そのもののようで、携帯の電池が切れていたのが悔しかった。住みたい。左右の壁の天辺には過去の衣装がガラスケースに収められていて、それも印象に残った。人の入りは、遅くなってから買ったのに整理番号が十八番だったのでガラガラなのではと危惧したがかなりよく、席も九十パーセント近く埋まっていた。席を探して、折しも二日酔いの発作が生じトイレに駆け込む。コンディションは最悪で、チケットを売ろうかと思ったけれど来てよかった。左の席には二十絡みの演劇サークルらしいニューバランス、右にはミニパソコンで書きものしているベージュのパンプス。席は最前列から二番目だった。アガる。

 開演の前に、ベルが鳴って規則的なアナウンス、同時に舞台の背景がだんだん真っ赤になっていくのがわかる。そもそもマハーバーラタは王家の継承権をめぐる血みどろ地獄絵巻を描いた叙事詩で、ブルックの演劇での死はそこからかなり隠喩を経て翻訳されている。いつぞやyoutubeで見たリア王みたいに首チョンパしないし、原作にあるように手足をもぎ取って血で髪の毛を洗う場面でも、スプラッタさせない。でも、その隠喩の繰り返しとミニマリズムからなる想像の余地がすごかった(これについては言及されまくってた)。パンフレットからの孫引きだと「一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある」とのこと。かっこいい。その意匠を含めて考えるなら、舞台の背景が真っ赤になっていくのはその大地がもはや死者で埋め尽くされているからだ。セリフにも「血で柔らかくなった大地が」うんぬんとあった。ちなみに『バトルフィールド』というタイトルなのに戦場が出てくるのは冒頭と、ビーシュマを看取るそのシーンくらい。この中に出てくる戦場は、記憶に留められたところの、distructionされ尽くされた地平であって、その取り返しの付かないものの後始末についてドゥルヨーダナが悩んだりがんばったりする、というのが主な筋書き。それに挿話が何度も含まれる。

 舞台には体の覆えそうな綿布が数枚、下手にはジャンベと椅子がある。大げさなセットは一切されていない。布はそれぞれ赤、くすんだ茶、黄、などの色で分けられており、生命力や権力、死体や赤子を象徴する。ビーシュマが死ぬ場面で、黄色の布を使ったのはとてもよかった。たとえば僧侶が着る袈裟は、死体から羅生門した衣類が元になっている。やがてビーシュマは全身を黄色の布で覆い(つまりモノとしての肉体になり)、クリシュナの指した方角を見て、ぼくらは彼の魂が天に飛んで行くのを見るのだ。このような想像のなかで行われる劇は何度も現れる。すごい。

 全体を通して言えば、ようやくジャンベのことが書ける、ジャンベがとにかくサイコー。下手に土取利行さんという方が座っていて、この人のジャンベがマジでヤバい。劇中に音楽はジャンベのみで、それでも弦楽器やら環境音やらが聞こえる。気がした。インタビューによるともともと楽器の数はかなりあったようで、それを減らして最終的にジャンベのみに行き着いたとのこと。『バトルフィールド』は土取利行の七十分ジャンベライブとして見てもぜんぜん飽きない。鬼のごときトリルが連打されまくる度に歓声を飛ばしたくなった。特によかったのが山火事のところ、ほんとに山火事が聞こえる、あと終盤のソロ。あれなんかは八十八ヶ所巡礼のライブの時とかもそうなんだけど長いブレイクって拍手のタイミングわかんなくなって白けるみたいなのがあってそこだけが悔しい。ソロ終わって一分くらい静寂。チョーかっこよかったのに。感情の起伏に合わせたフェードインとフェードアウト、役者の演技とジャンベがシンクロして叩かれるのが気持ちよくて始終下手ばっかり見ていた。いちばん冒頭のところでジャンベが鳴った瞬間に「かっこいい!」となるアレ。イントロで持って行ってそのスタイルを七十分失速させずに、しかも内容と調和しながら進行していくのはほんとにすごかった。とにかくジャンベ。とにかくジャンベがヤバい。楽しかった。日曜まで上演中。二十五歳以下は三千五百円。内容についても話したいけど力尽きた。とにかくジャンベ。よかった。

冷やし中空

冷やし中華を食べる間もないままに夏が終わってしまった。おそらく、これはわが阿頼耶識に保存され、死後多大なる負債として現れるであろう。ゴミを出すのを忘れていた。流しはまだ掃除していない。おそらくこれも。巨大なぶっ飛んだスパンで構築されているなにがしかさんによって日常の一切の行為は記述されているに違いないと時たま妄想にふけることがあるが、庚申会のことから見てもけっこうみんな考えているものっぽい。思春期に置いてきた負債をどうやって処理するかが人間のほとんどが思いつきそうな幸福実現法だとすれば、ファウスト博士の行為なんかはとても直截に時間遡行などという手段でもって行われているわけだからなるほど、なるほど、となる。憎しみきっていた我が身をどれくらいのかたちで、冷やし中華に対しての物惜しみくらいにいとしく思えるかというところがないと成功しないような気はする。夏にあったことを書こうとしていたらぜんぶなくなってしまった。いつか食べたことのある冷やし中華の味を必死に思い出しているところ。

自分の身体に張り付いているものは時間を通してだんだん魂に染みこんでいくのだが、幻肢痛というやつがたとえばそういうもので、あと何日も手に触れていない楽器に対して行われるように、魂として保持するということがある。自分の身の回りになるだけ他人を置いておくような生き方は、別にひとりでもできるということで、そのあいだというものこそをどうにかしないとヤバそう。台所並に。受話器と電話機のあいだの接合、男性器と女性器の接合部分、回転する自動ドアに挟まれて死んだこども。切手が明かすのは、通信に常に犠牲が伴うということであり、人間関係はたいへんということではなく、魂同士の連関は川と岩の関係に似ているということ、玉のように磨かれる中でどれだけのものを失ったかということ、むかしは毎年食べていたはずの冷やし中華をもはや食べなくなってしまったということ、その途端に冷やし中華が憤怒相を形容するということ、怒り心頭の冷やし中華がさまざまな責任を要請するということ、それは俺が冷やし中華と対峙するときにしか行われ得ず、あいだにおいてのみ行われるということ。季節の色合いを覚えてしまうと何度も何度も季節を更新してしまうことにはなるまいか、だから銀杏とかは嫌い。というか臭い。こまかく千切った百円のハムのように時間を細切れにしてしまうのは、神がそうはしていないのだからするべきではないのだろう。ものに座標を明け渡してはいけないのだろう、ということで掃除も別にしなくていいのだろう、憤怒相の冷やし中華は俺が時間を保持していること自体への負債で、これから何度も冷やし中華を食べなければならないという要請の現れ。無限に冷やし中華を食べる宇宙軸に位置してしまったからこんな目に遭う。麺類の異様さに耐えなければならない。麺類の不安も抱え込まなければならない。

セックスオンザ既視

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鶏肉を醤油で煮込む。世知辛いくらいに暑い。圧力釜の底にこべりついたイベリコ豚の残骸を眺めている、うそ。ほんとはカナダ産。腐りかけのキャベツを千(実際は五十)切りにしている視界の先端に浮遊する油が眼鏡に付く、珍しくもも肉、いつもは胸肉なんて買えやしないので、それだけに立ち込める臭気でいやになってくる、板橋の花火大会に行った友達のインスタグラムを眺めている、過去のことで、光景が何日も水でしか洗っていないまな板に反射する、ところどころ汚れている(それは夜のあぜ道)、三人で並んでいる、友情フェラってなんだっけ、真摯さってなんだそれ、そういう感じの話。豚肉で派手に遊んだので、台所は目下わりあい最下層のごちゃつき具合と汚さを見せていて、だいたいパーティーすれば片してもらえたんだけど、どんどんみんな消えていくのは否めないしそれもまあ夏なので。夏なので。人の誕生日を何のためらいもなくお祝いできるようになった、お酒がどんどん弱くなった、記憶はどんどんぶっ飛んで昨日が今日だかあいまいそれは言い過ぎ。手はよくしびれるようになった。せいぜいのところ噴出してきた圧力鍋のはじめだけおそろしい黙示録めいた嗚咽で、このとき圧力鍋の蓋からは気圧変化を間違えたせいで醤油だれが噴出していた、太陽肛門。脱肛。露出した肛門がほんとうに排泄機関としての機能を果たしているだかより今日の飯、手元には二千円しかないし、生活がどんどん物語めいてくるのは思ったよりいままで物語から離れていただけで、単純に居酒屋にひとつ足を踏み入れれば気の利いた話のひとつやふたつくらい耳に挟むことなんて案外かんたんなことなのかもしれない。それでもまなざしやらなんやらによってそれが組み替えられるときのこと、そういうところを何度も何度も反芻して、咀嚼して、つまりサイコーの夏を何回でも繰り返して、何回でも繰り返して、サイコーの夏というのは式年造替に、細胞に似ていて、アンドゥとリドゥを繰り返してギリシャの舟みたいに組み替えてしまうだけのことで、それは昨日の鶏肉のことを考えることでさえなくて、過去と対応させながらもう一個と砂糖大匙一杯足すだけで、最後に残った秘伝のたれ、ぼくらの秘伝のたれ、ああ秘伝のわざマシン、わざか、わざねー、作為的な韻律に毎回戸惑わされている、作為というのはおそろしいもの、魔物、そう夏は魔物、『夏の魔物』というやつはたぶんに冗語法で、夏に魔物が潜むということを考えるからみんな生ハメしたり性器にピアス開けたりするんじゃないだろうか、ぼくはそう思う、思う、われ思う、われサイコーの夏にありとわれ思う、ゆえにわれサイコーの夏にあり、パロディ、夏に同化しようとするとたぶんだめになる、それは夏ではないから、それはもっと遠いものだから、気圧変化で崩れる鶏肉みたいに暑さでやられてしまってもまだ夏ではないから、夏はきっともっと遠くのところにあって、そのかたわらにだけほんとうのビーチがあり、ほんとうの花火があり、ほんとうの熱中症があり、夏の真似事をいくらしたって火を盗んだ罪人のように夏を盗んでしまわなければ意味なんてないのだ。だからガスでいま煮込まれた鳥だけが正しくて、ぼくは祈り続けている、どうかこの鳥がこの夏を過ごさせてくださいますように、わたしをどこか夏らしいところへ連れて行ってくれますように!そうだった、夏でなくてもいいので!それはきっとほんとうにつらいだろうから、こうした紛い物の飯を食べ、紛い物の暮らしをしていっても別に生きてしまうことには変わりはないだろうから、耐え切れないなんて根を上げるのはサイゴンの露商にでも任せておいて、夏をですね、夏をですね、夏をですね!カナダ産豚肉の臭気。

ストロングゼロについて知っている二三の事柄

ア、バアバアバ。2009年である。テトラポッドの間に間にを漂うフナムシの光沢が二桁の予感を知らしめて、ハリーポッターはちょうど不死鳥くらい、俺は城跡の上で酒盛りを続けていたはず、スピークムネモシュネ、スピークムネモシュネ。蜂須賀公は盗賊からの成り上がりでこの城を手にしたというが見渡すとそこまでアメリカンドリームらしくなくて、第一小金持ちの多いこの県では誰も労働には着手しない、だってピケティが正しいんだもん。おさがりのママチャリとプージャーで塾帰りの銀チャを襲撃する。ヘッドフォンではなく携帯のスピーカーからシャカシャカ流れるラッドウィンプス。ああ。セブンスターのべたつく口触りを誇らしげに確かめながら橋を渡って二十分弱、川流れの見えるここでは祖父の語ったはだしのゲンよろしき地獄絵図が思い浮かぶ。端から端までを覆い尽くした人の群れとなると烈河増である。なるほど三大河川として数えられるはいいが、夏場には使用済みのゴムが並ぶばかりで、おそらく原付の数台は落ちただろう、初夏を過ぎるともうすぐ、花火の殻がラムサール条約に中指を立てることになる。いや、正確には結ばれなかった。大橋の新設に住民団体は反発したが、そんなものどこ吹く風、なぜなら大塚製薬そして日亜化学の工場に続く大いなる巡礼路が増えるのである。崇めよ、石原さとみを、崇めよ、ポカリスエットを、住民の主食はカロリーメイトであり、われわれの海馬は青色発光ダイオードに啓蒙されている。ゆえにわれわれの精液は甘い。糖尿病全国優勝である。そして、ゆえにわれわれが手にするのは、かつてもそしてこれからも、糖質ゼロ、プリン体ゼロ、ストロングゼロのみであった。
アディダスのエナメルボストンバッグに詰められた百以上の缶にわれわれは戦き、震え、かつてモーセがそうしたように山を登り始める。なぜなら下界には原ポが蔓延るから。朝刊の原付の音と紛らわしくてマジで困った。からついた笑いとも取れる自転車のブレーキの音と軋むサドルの音。前で運転していた人間の顔をもう思い出すことができない。何人いたっけ。誰がいたっけ。いまなにしてるっけ。なんだっけ。なにがよかったっけ。誰がなにをしてなにを言ったっけ。誰がなにをしてなにを言った結果誰がまたなにを言って飲んでまたなにをして誰がしたっけ。なにを飲んだっけ。山道を踏み越え互いの顔が夜に滲ませられていく。もうすぐ誰も誰でもなくなるのがわかったので、目を瞑って階段を登った。

肥満児が見てる

夕方に銭湯に行った。いつもは靴箱の33番を使うのだが、日曜日の夕方となると行楽を終えて戻ってきた親子やら若者やらでごった返して案の定空いていない。左横の41番にスリッパを入れた。目線の高さと手の高さにちょうど合う位置で、かつ覚えやすい数字かどうかが靴箱なりコインロッカーなりを選ぶときの点になっている気がする。端を選ぼうとすると自分の手を伸ばさないといけなくて億劫なので、そうしない。浴場で自分のからだを見るとサイゴンの下品な紫外線で真っ黒になった肌があった。「ギャル男」と口に出す。鏡のなかのおれも同じように口を動かす。自分のからだが変化するのはおもしろい。弄ばれているのが肌身にそのまま現れるから。
小学生のころは太っていたから、当たり前に服が脱げる友達が羨ましかった。自分のからだが憎かったことなんて言うまでもなかった。二段ベッドの上から落ちて肩の骨を折ってから、ブクブク太っていくあのあいだの恐ろしさと、同時に空腹と、それでも運動をする気にならない怠惰のおぞましさが一緒になって、毎日襲ってきた記憶がある。終わりにかけて唐突に痩せた。体重がそのままで、身長が十センチ伸びた。そのときはわくわくした。たばこと酒とにきびが後ろに控えていることも知らずに。
最近は恐怖や嫌悪よりも漠然とした興味だけになった。苦労をして苦労をしてやっと手に入れた、たとえば筋肉なり体力なりといったものには元から興味がなかった分、かえってそれが一気になくなったりすることの方が被虐的な楽しみになった。目元を何度か眺めていると、皺が増えていてひとりでウケている。そういう夜は、耳元で誰かに囁かれて、そいつの皮膚がパンパンに膨らんでいることに気付く。でももう何も言うことができない。じっと眺めることしかできない。
数年前や数ヵ月前、数日前の自分に憎まれ続けている気がずっとする。他人に憎まれているならまだ話すなり笑い飛ばすなり罵詈雑言を浴びせるなりどうにかしようがあるのだけど、自分に対してはなかなかどうしようもない。その憎しみが見当違いだろうこと含めでどうしようもない。聞いたことのないバンドの話を友達が始める度に永遠の小学五年生たる肥満児が暗闇から裁判官の顔で歩いてくる。じっと眺めることしかできない。そしてその顔がつい先日見たものと同じだったりする。
自分に向かって呪詛を吐き続けているありさまだからこのあいだも泥酔して記憶が飛んだ。それから禁酒を誓ったものの十日足らずで破った。銭湯を出て階段を降りると少し寒かった。帰り道で酒を買った。

成田エスプレッソ

黄緑色のトレーに乗った白色オンリーのサラダの群れを見ていると自らの色彩センスのなさに辟易する。しかしこの食堂のサラダは総じてクソ不味くいかに及第点を選び取るかが問題でして、そうなると無難なコールスローやおそらく不味くなりようのないポテトサラダを選ぶ。偏に肉がほしかった肉は旨いんだ肉はというだけの気持ちで飯を咀嚼しているものの、怠け癖が治らず未だにナイフを右手に持っていて、「育ちが悪いんだよ」と言ったら「親に謝れ」と言われた。その通りだと思う。
一人で飯を食っていたら知り合いがいたけれど気付かないようだった。人がわんさかごった返してるなかでもJAPANと刺繍の入った俺の赤いスカジャンはそうとう目立つはずだけど、とうとう幽霊にでもなれたのだろうか。氷を見せしめみたいに噛み砕いて、トレーを棚に戻して、食器を適当に洗っている最中、去年曲がった歯がしくしく痛む。ドッヂボールをしていて顔面で受けようとしたら盛大に地面とバウンドした。砂利が唇を貫通した。その手前ではブランコを「ああ子供時代……ああ子供時代!」とサンテグジュペリでも暗唱しながら漕ぎ楽しんでいたはずなのに、記憶に残っているのは「銀歯にしようぜ」「いやダイヤモンドだな」「ラッパーみてえじゃん」それと抜糸の激痛。痛みで久々に泣いた。病院を抜けて安田講堂近くのクリスマスツリーを見ているとほんとうにどういうことだろうと思った。そのあとはふて腐れて帰ってシコって寝た。八つ当たりとばかりにそのあとしこたま酒を飲んで記憶を飛ばしたら、また地面に歯をぶつけてひたすら叫んでいたらしい。起きたら知らない門松が隣で寝ていた。

「年下が来て自分が年老いたアピールするやつめっちゃ嫌いなんだよ」って友人が言っていた。若さが相対的なものであってほしくない気持ちというのはある。でも金魚の水槽と同じで新陳代謝させないと若くならないのかもしれない。いきものを育てることには向いていなかった。妹の世話だってしたくなかったのに、魚なんか育てられるわけがなかった。金魚は全滅して、メダカは大概南無阿弥陀仏、トイレに流すたびに地獄だものなあとひとりごちているが、そういうときに決まって灰皿をひっくり返す。悲しいことに娯楽でしかなかった。死ぬ間際に水槽の天辺に向かう金魚どもは貧相な言い方をすれば㈱助けて守護月天、気持ちのインフレがQOLと反比例している。魚の水槽に溜まったゴミのことは考えないでハイボールを飲み続けていたら毎日熟柿のにおいがし始めてきた。かつてもいまもこどもであれた試しがない。しわくちゃに生まれてしまった。