ポンカレーの見える海

地元マァヂ愛してっから、マァヂ地元愛してっから、ということを爆笑しながら話す人間の顔には、常に口の端の皺やらに暗いものがいつまでも付き纏っている。郷里の話なんぞしとうないしとうない!と駄々を捏ねていたものの、その、地元と呼ばれるものに付随するほの暗さやひとつの後ろめたさはなんだろうとは思う。それは上京やバックレに見られるものではなく(少年は虐待を受け~みたいな陳腐な納得をさせるあのプロセスが好きじゃない)、むしろ地元にいるときに本質的に感じていた遠さというか、疎外感というかまあ疎外感なんだけど。中川の家行ったときにポケモンやってたんだけどそんときやっぱルビサファ流行りくらいの感じで、でも長谷川は一個上なんだけど長谷川ん家行ってるときと中川ん家行ったときのルビサファのニュアンスがぜんぜん違うわけ。中川ん家がいいとこだったとか長谷川ん家ではスマブラサルゲッチュやってたとかもちろんそういうとこはあるけど、それでもやっぱり両方人間っぽくなくて、攻略法とかそもそも俺知らねえし、家帰ってまでゲームしたくねえしそれならこち亀読みてえし、ていうか先輩のコウジくんがマジヤバくてさあ、あの人原チャ倒したやつボコしてそのまま川投げたらしいぜマジヤバくね。マジかよヤッバ。つうか長谷川家の前に心スポあんじゃんアレやっぱ出んの。出る出るマァヂ出る。うっわー。文化的な会話じゃない!文化レベルが低い!とかそういうのじゃないんだ、たぶんそれも同じことなんだよ、コウジくんヤベえのとシェイクスピアヤベえの別にあんま変わんないし、そういうのよりもっと遠くて、長谷川が今はパチンコ屋でバイトしながら地元の俺らの代のと麻雀打ってるみたいなところにあるこの遠さっていうか、時間のせつなさとか生老病死とかじゃなくて、たとえば飲んで次の日にする暗い話とかでも、どこかなんとも言えなく遠くて、当事者性が失われているというか、どうしたらいいのかよくわかんないっていうか、バスケの顧問の顔とか財閥息子とか思い出してもアレがどう考えても俺自身の生だと言えるかと思えば少なくともそうではなくて、それは多分に固有のものでなくてはいけないみたいな思い上がりがまずあるのはわかる、わかる、わかるとしてもだ、そう本来あった生、本来あった生はそれほどまでにテンポが一定付けられていなくて、いわばぜんぜん当たらねえジャグ連十二分の四で、毎回千円ずつジワジワ蝕まれていく感じで、地元がどんどん死んでいく。いっぺんになにもかもぶっ壊されやしなかった。すげー緩慢に、スロウリーに、すろぉぉぉぉぉうううううううりいいいいいいいいに、きっかけはなんでもよくて、ポコッと消えるのが頻発する。そういう感じだ。スマブラみたいな派手なエフェクトが出ればいいなと思ってる。

夢でなし

久々に長い夢を見た、もう書いたので別に書かないけれど、よかった、夢の中で旅行するのはなんとも楽しい、けれど薄暗さがずっとあった、起きても暗いままだった。ビジネスホテルのカーテンの遮光性の高さは、普段日光でレムを阻害されてうううと起きるよりも不快だ。起きたらそのまま夜だったかのような焦りを覚えさせて、カーテンを引っ張って、隙間からホームレスが缶のたくさん入った自転車を引くのや、市営のバスが走るのが見えると、安心して二度寝して、そのまま思った通りになる。大概ビジネスホテルを使うときは部活の遠征や軽い旅行以外にはないので、早々に、十時には部屋を出なければと思うし、パリパリのシーツが体に合わないので寝付けない。父は数年前までホテルマンだったが、実家の俺の部屋は壮絶な様相を呈しており、その度に自らの職業が無下にされているような憤りを覚えていたのだろう、ファミコンひっくり返したり、たまに俺にビンタしたりしていた。お陰でいまも部屋が汚い。掃除なんかしてやるものかという反動形成が大いに作用している。いいえ。自身の単なる怠惰に過ぎません。
ペテルブルクの貧しい青年のような、あるいはリスボンの会計士のような、あるいはブエノスアイレスの詩人のような、そんな夢を見られたら楽しいものだろうか、そこまで書いて、夢のなかの通過地点にリスボンが含まれていたことを思い出して苦笑している。そこにある起き抜けの薄暗さを捨象している間に、何匹か魚が水槽でぷかぷか浮いている。トイレに魚を流す度に、友人の顔が浮かんだり沈んだりするので、尿石ごとブラシで削って、下水にまとめて叩き込んだ。そこから立ち上ってくるすえた臭気が夢と呼ばれるものだ。枕の下に流れる誰かの水音を聞いている。わが部屋に堆積した無数の夢でなしが、恨みがましく押し入れから覗き込んでいるのが見える。

居酒屋で忘れた煙草のラスイチに

ほら、その、もう少し下らへんというか、下降している感じみたいなものがあって、そいつらは頻りに信号待ちくらいで、刺してくる。学者の地層を眺めるときの目付きと、片眼鏡の奥で光る瞳孔の、その間に立ち尽くしている倦怠、まなざしへの、メザシの唐揚げが旨い、早贄まで飛んでみて、腐らせてしまった多くの鶏肉にクセジュを投げ掛けて、メダカを目下見ているんだけど、目があったときに鋭角だとおもう。先端恐怖症の友人に煙草を近づける悪趣味は、昨日した。今度はメダカを近づけてみよう。数年前、女がラーメンを鼻から出しているのを眺めてから「胃下垂で」と彼女が弁明するのを聞いた、おそらくどちらも同じことだ。ホッピー中。絶えずデラウラ、はその生涯を汚れたシーツを洗うのに費やしたが、水を吸って潤沢に跳ね回るシーツに女の影を見たのだろうか?火炙りにされた狂犬病の女にとり憑いたものどもは、火によってその威厳を失い、あと肉汁を放つ。ハラミください。用心深く見張ることだ、いいな、串の先端部の焦げ付きからそいつらは染み出してるかも知れない、宇宙と呼んでもいいかもしれない、ウェルズの海底が奇しくもその色として似るような塩梅で、魂の焦げ付きが至るところに張り巡らされているに違いない。てんでばらばらだ。統一感を伴って?お会計で。交差点で立ち止まって後ろに振り向いて手を振り何かを暗示する女を見た、俺は後ろを見たが誰もいなかった、「ここから」、なんて言ってるのかぜんぜん聞こえなかった、三回目で狂ってるのだろうかと思ったら、素っ気なく向こうの通りに入ったらその暗示をやめて、カーキ色のダウンジャケットの右裾をぶら下げながら女は消えていった。数秒もするともののみごとに雑踏で、うすら寒かったので地下鉄のホームで暖でも取ろうと思った。何人かと目が合ったが、そのままみんないなくなった。

いぬくさい

うう、とかああ、とか喚いていたりする。犬臭い!築地市場のホルモン丼を考えて、まだまだ、状態はちっともよくない、漫然として、テンポがぜんぜん上がらない、た、あ、む、た、あ、む、……白線の内側を越えた双子の片割れ、冷静さを欠いたに違いない、それこそ証明問題におののいて、三角関数の周りに張り付いた肉塊がシミになって取れないときのような単語!ぶぇーぶぇー鳴りぶぁんぶぁかだーばーばーばー潜伏する息の、当て処をなくして傘を叩きつけ諸世界の底は「もっと下」と言い始める、んん、臭い!入念に、入念に、乳鉢で擂られるゲンコツ、飛散する胎盤マグネシウム色をしており、それらが生命を近付ける度に燃える、燃えなければならない、んん、臭い!臭い!あるいは鼻孔に引っ掛かっているのかもしれない時間が、凍りついた炎と呼ばれる胃の痛みが、黒胆汁を垂れ流したわが片割れ、フォアグラよりホルモン屋で得られる第二の人生を!常に第二だ、二楽章目、イントロが終わったあとの退屈なAメロ、俺に与えられたハードテクノ、この臭いは産まれる前に嗅いだはずだ、つまり白線の内側において。鍋だった、テフロン加工された俺の実存ゎゅるくゅるくなってィク……、っかみにくぃ鍋の取っ手に並んだ前-弟共を突き飛ばせ、非-弟も、未-弟も、三度回ってワンと吠えろ、キックの三連符!

膣内バレー

東京の話をしてみようとすると途端に途端にその、町がぼやけていく感覚がある。と言うのも実際二年ばかり住んでみたものの、未だ知っているのは微細な特徴だとかではなくて、単なる答え合わせに過ぎなかったからだ。感傷的な文章に合わせるために都市があるんじゃないからな、わかってるのか、なる旨の十代の怨恨がそのままのし掛かってきてそろそろ重たくなってきても、依然それが文化的であるだとか人に溢れているだとか、会いたい人に会えるだとか、そんなことでは決して決してなかっただろうし、ないだろうと思っている。首都の名詞に張り付いたものを人間がそのまま受け止めきれないから、うちから近所の煙草屋までの通りには二三の吐瀉物があり、地元の盆踊りよろしく夏の代々木公園には使用済みのゴムが転がる。飲食店を近辺に置き排泄欲求がやたら高めるわりに、新宿のルイヴィトンにはトイレがない。ひたすらつらい。なめとんのか。
「東京は、誰にも会えない。」と書いたのは誰だっけ覚えてるけど知らないふりしとこその方がかっこよさそうだし、ナウいでしょそういうの。コンクリートジャングルは寒いぜ、切実だぜ、などと言っていればいいのか。そんなものか。大状況めいて書き出したものの、なんにも浮かばねえ。そういえば「東京はクソ」と言う人々の目玉には常にこっぴどい人間模様があるんでしょうね、可哀想ですね。昔の女をボロカスに言う気持ちと似ているんだろうとひとりでに思っていたら口を揃えていて、こわくなった。それだけ。
答案用紙を裏返して落書きを続けるその気持ちが未だに残って困っている。まだ解答欄は微塵も埋め尽くせていない。アンチョコはずいぶん昔にひとりでに破裂して、カンニングペーパーは教室の外に飛び出した。パルコの広告のセンチメンタリズムに浸されてビシャビシャになった机の上で、鉛筆をしがんで教鞭に打たれる。

(汗)

 実家は海沿いの神社の裏にあって、朱色のペンキで塗りたくった鉄の階段を上らないと居室に入ることができない。階段の天辺から転げ落ちる夢をこどものころに何度か見た。母親に聞いてみるとやはり落ちたようで、傷はなかったがたいそう泣いていたらしい。靴を結ぼうとした拍子に自分の体が宙に浮く、そのどこにも着かない感覚が厭で堪らなかった。起きてみると冷や汗は尻まで染みていて、これもまた不快で、そのたびにグズグズしたピカチュウのブリーフのパンツを振りほどこうとするのだがうまくいかず、かれこれ十余年ばかり張り付いている。タグに書かれた名前には怠惰とある。

 自分のことを怠け者だと言うようなまねをしたいわけではなく、少なくとも部屋の隅にはじっと体育館座りをしたそいつがいるのをよく見かける。心身を二分割して指差して、わたしと何度も記述して遠ざけてしまえればどれほど楽だろうと思っていたら、そうでもなかった。暗い目をした少女が爪を噛んでいるなどとは言い過ぎで、実際は陽気な中年男がパン一で独り言を言いながらこちらをガン見しているくらいのイメージ。パンツにプリントされたピカチュウの電磁波によって俺と中年男は精神を共有しており、眠る前になるとよくふわふわタイムくらいのニュアンスで「そうだ寝ようよ」とか頭の中で言う。起きても言う。度合いによって中年男の数は増減し、ひどいときには六畳に満杯の中年男が犇く光景もある。その度にアルミホイルで結界を作りそのリンクを断ち切ろうとするのだが、淀んだ汗でもって決壊する。ギュウギュウに詰まった中年男性の加齢臭を嗅ぎながら、俺は老いる。しかしある夜中に目が覚めると、ポケットピカチュウを手にしたまま、リセットボタンに何度も爪楊枝を刺しているのに気付いた。毎晩俺はそのまま浮遊し、ピカチュウのありえたこと、初恋、坂の下の公園、前歯、奥歯、カツ丼、オムライス、の中に入ってるチキンライス、を際限なく観測させられる。怠惰は爆笑して腹を掻いている。裁かれるのを先延ばしにするためにひたすらリセットボタンを押しまくっていると、手元に転がる見知った顔。

セイベベ

 物心が付いた気が未だにしない。中空に自分の魂がふわふわと浮いたままで、日常的に幽体離脱しているからこのような身体なのかなあなどと体育祭で行進ができずに端っこの方に追いやられていたころ、思った。身体が不器用で、などと言い出すと、それは誰が、と言われ、なにと比べ、と言われ、じゃあこれは、と言われ、はい、と黙る。はい、はい、灰になるとハイミナールは似てるというダジャレでもって文章を回そうとしたけど薄汚いのでやめた。こどもは七つまで人間ではないというのが有名だけど、そのあいだこどもの魂は中空に位置していて、常に第三者的に、そして確実に第三者であるからこそ感覚が鋭敏であるはず。失っちゃったのねアタシたち……という居酒屋であと一週間後くらいに語られるあのゆるい感傷が、冷めて見えるし他人事めいているのは、むしろそれが厳然と自分事に他ならないからだ。いわゆる天使主義的虚偽です。そういったものをむしろ受け止めきれないか考えているあいだにうどんを茹でるために沸かした湯が沸騰する。手元にあるの二千円くらい。光熱費はまだない。ウギョヒーッ。ウヒイイーーッ。ウジャジャゴジャグジュジュジュジー。グエッヘ。エッホ。オエッ。……しかし、こどもであるとかおとなであるとかそういう話をすることで名前を付けてラッピング、ジバニャンが黒衣でもって見せ付けてくるのは痛々しい一人称だ。いかんせんひっついているので統御できるものかと思っていたらそうではない、おれがおれに馴染んでいない。誰が、なにと比べ、じゃあこれは、はい。うどんの光臨をべたつかせて天使はスプーンの上に乗る。