日記:建築についてわたしが知っていた二、三の事柄、あるいはバベルの塔へのわずかな憧憬

製図台から離れ万年布団でうめき声を上げながらASA-CHANG&巡礼を爆音で夜中に流していたのが高校生のわたしで、ヤングジャンプに出てくるヤンキー漫画のザコみたいに灰皿や酒瓶が戸棚に隠してある。床には教室以外で読みもしないバタイユの箱本がごろついていて、定規や種々のシャープペンシルが転がる、図面の鎮座する机は見えないように卓上灯を天井に向けている。建築学科に所属していたわたしは、明日に訪れる課題の締切が嫌すぎて、「頭が痛いはず」と自己暗示をかけていたらそのうちほんとうに頭痛がするようになってきたころ。引き寄せの法則キョンキョンの「せ、な、か」という美しいアンビエントボイスを聞くといまでも当時の状況が蘇り、冷や汗が手に滲んでくる。記憶が悪いだけで、いい曲です。当時の記憶のせいで聞けない曲はこれ以外には筋少のサーチライトです。やっと慣れてきた。

「一度描かれたものを書きたくない」という意味不明の自意識が、小学生のわたしが漢字ドリルをしない理由として掲げられていたが、16や7になってもその性癖が抜けずに担任からのバイブレーションを待つことに焦りと恐れを感じながらなおも作業せずこまねいている。浅はかであるし、愚かである。人間は人間の模倣をしながら人間になるのだ。幼児を見ろ。製図台にマスキングテープで貼られた製図は住宅の凸型の土台のものであり、基準線を2点鎖線で引いたきりで、「モルタル仕上5mm」の文字などはない。しかし書きたくないのは変わらず、しかし書かないと怒られるし、書かないといけないのもわかるし、などという煩悶や怠惰や罪悪感への言い訳や親譲りの無鉄砲を繰り返して、やがて深夜を過ぎ、弦高の上がりきった弾きにくいベースを置いて、作業時間を想像するが、朝刊の原付の音が聞こえて、心臓の鼓動が倍テンになる。焦燥感で「ハワイ」と口に出すが、眠気覚ましのつもりで買ったはずのエスタロンモカをODしていて不安感と胸の痛みでそれどころではない。7時までにあと3時間、進捗がよければ内部の上書きまでできるはずだが、引くべき線の長さがわからない。用紙に記載された仕様を確認して、基準線同士の間隔から明確な長さを推測する。記載されているのは1820mmなので100分の1縮尺の図面では1.8センチ。メモ。数分経つと、メモしていたはずなのに字が汚すぎて読めない。また調べる。引いている最中に芯が折れて散々なことになる。消しゴムで紙が表面的に荒れる。台がずれていることに気づく。叫ぶ。明け方なのでよく声が通る。枕に頭をつけて叫ぶ。父親の目覚ましの音が鳴る。聖者の行進。「おはよう朝日」のエレクトーンの音。母親が洗い物を始める。煙草を吸う。いますぐ海に行きたい。

 

ブリューゲルバベルの塔展にこのあいだ行った。展示は主にオランダ系美術を中心にしていて、トリを飾るのがブリューゲルの描いた二作目のほうのバベルの塔。会場の中は最終日近辺でごった返していて、抹香臭さや香水、あとはボディミスト、食い物のにおいなどが混ざって展示されていたボスの版画のようにごちゃごちゃしていた。プロモーションが多分に上手なところだったようで(たとえば硬派な展示は日経とかがやっているイメージが強いんだけどこれはもしかしたら偏見かもしれない。)朝日だったからか大友克洋版のバベルの塔の内部構造が展示されていたり、グッズが充実していたり、図録が安かったりエンタメしていたような気がする。序盤にあった宗教画の三幅対を見てベーコンの作品を思い出したり(ポロロッカ逆流現象)しながら見るのをやめて歩くのに専念したり、話したり、いまみたいに建築やってたころのこととか思い出したり、そういえば高校生のとき、ってだんだん記憶が混濁してきて、地元にいたり東京にいたりインターネットにいたりした瞬間のどうも言い切れない居心地の悪さというかモーダルな感触があって、それはコミュニケーションのなかの小さい不和感というか不穏さのあらわれであって、「ここではないどこか」へ向かおうとするような気色の悪い精液のにおいのする思考を撒き散らしていて、そこに加わるような酒、酒であって、泥酔して路面に寝ているにんげんに対して祈りを捧げるような陳腐な罪滅ぼしをはじめだした俺は、おそらくは呪いをかけながら、かけられながら存在するわけであって、それは空間についての呪いでしかないのだけど、空間はカントが言っていたようにアプリオリなもので、たとえば近隣のにんげんが消失したときに感じるあの半身の喪失のような感情は、おそらくはまだわれわれが不死であると思いこむがゆえのアポステオリとアプリオリな空間の混同であって、なぜなら酒で生じたにんげんというのは酒によって消えていくわけであって、東京によって生じたにんげんは東京によって消えていくわけであって、サットヴァ、ラジャス、タマスのトリグナが暴れまわることで構成された俺というこの照明や明滅というのは常に肉体から空間から離れようとする痛みとそれを押しとどめようとするふたつの動きの拮抗によって絶えず存在と非存在の合間を縫っているに過ぎなくて、接続詞が向かうのは述語ではなくただ向こうに過ぎなくて、「男がいて、彼はAからBに移動する」というそれだけを書くためにあることの建築物が、ひどく耐えきれなくありながら憧憬を挟まずにはいられなくて、また憧憬には常に精液の色があり、丹田のあたりに染みてくる思春期によって若返りながら老いていくその苦しみに対してもはやこのような乱雑は慰みにもならなくて、しかしながら記憶を胚胎する建築であることのわれわれは、それを空間化することでしか逃れられず、夜ごとに訪れるこの空間化された時間を慰撫しその輪郭を辿っていくことしかできないまま、こどもらしいあこがれを投影していくことの惨めへ赴く。