日記:N・S・ハルシャ展の感想(六本木がこわい)

六本木はいつ来ても慣れない。と言っても数えられるほどにしか来たことはないが、街そのものが持っている性質がすでにこわい。端的に言うと「いっぱしの都市生活者とじぶんは思い込んでいたがやっぱりおまえ田舎者じゃん」、というのを街全体に突きつけられている。上野だの池袋だのはなんだか地元に帰って会った先輩がネズミ講やってた、くらいのファンシーなニュアンスが建物にもあっていいんだけど、六本木はとことんこわい。エスカレーターで、露出の多い女の人を見るたびに都市が具現化しているとおもう。あそこには都市が住んでいる。

地霊と呼べばいいか、あれらが住んでいるらしい原宿赤坂六本木あたりのラインがいまだにこわい。じぶんに確信が存在している人間にあこがれているいっぽうでその人間が別の生き物すぎてこわくなる瞬間のようだ、それは。確信というのは日常にありふれている狂気の一端であって、たとえば長さ数十メートルの箱のなかに詰められることを毎日繰り返すのはその先にある幻想について確信を抱けているから。数百年前まで海だった場所がなぜ足場を手にしたかといえば、えらいひとに取り憑いていた都市たちが産めよ増やせよとささやき続けていたから。そういえば、薄ら寒さを感じるくらいに清潔な町並みというのはいつも埋立地で、人工的な地面なんかを見ていると雑多なアスファルトに帰りたくなる感覚というのがあって。確信はなめらかな表面なので、手を触れていても触っている感じがしない。いつの間にかなめらかになっている。コントラストがきつすぎるんだろう。取り巻いているすべてが都市的なふるまいを強要しているように感じる。だがホッピーを飲ませてくれ、角ハイやレッドブルで俺を囲繞しないでくれ。「角ハイボールがお好きでしょ」よく見ればカツアゲみたいなコピーだ。

 

生まれた日でしたので、森ビルのマーベル展をひとしきり見て、時間も余っていたので、N・S・ハルシャ(以下ハルシャ)の展示も見ることにしました。日記をはじめてから生まれたころの話をするのはもう三回目ばかりになりますが季節はやっぱり焦ることが多くて、風はやたらに吹いていたし冷や汗がなぜか止まらなくて、内省的傾向に陥りがちな自身をどうにかちょうどいいように調節しようとしてはみるのだけど、それはじぶんの状態の客観視につながり少々しんどい。

ハルシャ展ではロハスっぽさが全面に押し出されていて、ヴィヴェーカナンダあたりのシカゴ宗教者会議での発言とかを思い出す節がある。西洋vs東洋の。インドの宗教画でよく見る集合を採用しているみたいで、その数が尋常ではないので対峙するとかなり圧倒される。ガンジーの機織り機に着想を得た無数のミシンが互いに糸を絡め合うものがあって、それもビジュアルのインパクトがすごいし、国旗がそれぞれにミシン台に貼られていてコンセプトが直で伝わるのがすごいなーと思った。強度っていうものがきっとあって、音だったりビジュアルだったりの場合単純なでかさっていうのは文字通り大きい効果を与えてくれるんだなーと再確認した。たしかその直前にふとWTCのことを検索していて、ビルから落ちる人間の写真を見て芥川の羅生門の冒頭を思い出したりしていた。むかし参加した講演会で建築士WTCの話をしていて、「ゴマ粒みたいなのがビルの周りにあるんですけど、人だったんですよ」と言っていた。それからずっとこれが接続される。

その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。

個人的に印象に残ったのはタイトルで、邦訳なので実際どういったニュアンスかはわからないけれど次のようなものがある。「恐れの詩学」「煙が上へ、煙が下へ、ぼくはいつもきみを探している」「溶けてゆくウィット」かっこいい。二番目のタイトルがロマンチックでかなり好き。複製ではなくて個々に魂がある前提なので、パンフレットにあるような集合絵は細部まで見ると好き勝手に生きていてよかった。好き勝手に生きていてその生を生として受け止められるのってすごくいいことだとおもいます。それが確信まで届けば宗教も習慣もいらなくなるからもっといいとおもいます。帰ってから、ケーキをもらったり、写真を撮ってもらったり、人間っぽくなった。それからは髪を切ったり酒を飲んだりしている。なめらかになりたい。なめらかな胡麻を目指そう。地下ではなくて天井に落ちていく胡麻になろうとおもいます。ミキサーかけると浮いてくるやつ。
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