身体について;俺はなぜ行進ができないのか

 肉と骨はたやすくくずれる。語源的解釈。肉は動物の皮膚に覆われ骨に付着する組織のひときれを描いたものであり、骨は肉の中心に位置し、それが集ることで體(からだ)となる。統合としての身体は、それぞれが別個の機械によって成り立っており、ブリコラージュによって集合した巨大な知覚のための媒介として機能する。器官はそれぞれが好き勝手に動き回っており、スピノザ風の二分論でいえば平行的な対立を伴いながら、身体と精神は永遠に交わることがない。肉と骨はたやすくくずれる。オシリス神が無数に分解され、オルフェウスが解体され、ランボーが右脚を切断されたがごとくに、身体は常にその外へと伴いを見せる。身体自身への外へ向かう身体は常にその不可能性に見舞われる。頼りがいのあるはずの死は精神の敗北を意味するだけで、身体は敗北しない。というのは、たましいはもはや存在に敗北した存在者によって身罷られたある幼い赤ん坊に過ぎない。しわくちゃのオイディプス王を断頭するレテの川は人から知覚を奪い去る。

 

 鈴木敏晴[2013]によれば、エドガードガの作品群に「柔らかな肉を突き破らんばかりの脊柱を見出」したフランシスベーコンの絵画とは「晒された肉の表面であり、それは『ここを去ってあちらへ行く』(中略)」ものであるという*1。たとえば、ベーコンの初の裸体の人物画である《人体による習作》を参照すると、カーテンの向こうへと赴く身体があり、また、《走る犬のための習作》では、速度性によって極度にその身体を歪めた犬の姿が青白く側溝沿いに漂う。ここで描かれている身体たちは、確かにその像をくぐもらせて、現象として、「有機交流電灯のひとつの青い照明として」機能されているように見られる。鈴木[2013]はまた、皮膚によって脊柱を覆ったドガとは対照的に、ベーコンはその皮膚を取り払ったともいう。

  ところで、舞踏の世界ではアイソレーション(分離)と呼ばれる、舞踏におけるあらゆる動作を可能にするための基礎的な技術が存在する。これは要するに身体の指や四肢をはじめとする一部分を独立させ意識的に制御するものだが、いっぽうで、これらの身体への意識的なアプローチは、われわれの身体がつくづく偶発的に作用してきたことを知らしめる。鈴木創士[2014]は次のようにいう。

 なぜなのかはわからないが、身体の「宿命的な」身振りというものがある。それは身振りであることをすでにやめてしまっている。身振りというよりも、それは行動の、動作記憶の規範であり、空間というかむしろ空虚のなかで、時間と連動した身体の一種の悪癖のようなものだ。それはほとんど物質の様相の一部をなしはじめた思考の始まりである。脳の右側から入った言葉の粒子または音響は、左側に合図を送り、システムを装う言語を私に強要する。なんという疲労だろう。

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 「宿命的な身振り」、それは「どうやったら百本の足をうごかせるの?」と聞かれるまでの寓話のムカデの動きに似ている。ムカデはその瞬間に、いままで「自然に」行われてきたはずの身体統御の方法を忘れて死んでしまう。時間はわたしたちの中をひっかき回して勝手に身体を連動させている。それを自覚するためにはまず身体自身に近付かなければならない。間隙の不規則な痛みやそれこそ「疲労」によって、われわれの身体ははじめて身体へ近付きを見せるに至る。いかに自動的に身体が動いていたかを顕著に知ることができるのは、それがほころびを見せること、意識の機能不全による身体の強さを思い知る瞬間であるとわたしは感じる。糞の詰まった肉袋であるわたし、存在するために糞をしなければならないわたしは、そのときに「この身体」が、自らの所有からすでに遠く離れていることに気づかされる。

(個人的な経験でいえば、いまだにわたしはエイトビートを叩くことができません。あんなの、手足がぐちゃぐちゃになってほぐれて消えていくみたいで、ひっちゃかめっちゃかしたわたしの肉体は風にまぎれて消えた一個のほこりのよう。そう、高校生のときに体育祭で行進をする機会があって、拍を合わせたように作用する足は横とはどうにも合わなくて、遅延していると思えば早すぎるし、ちょうどと思えば遅すぎます。そのときは見栄えが悪いからと行進の内側にわたしは配置されたのですが、これにはじまったことではなくて、太鼓の達人は「ふつう」でもうだめ。ベースラインはいつも早すぎるし手数が多すぎる、ギターのカッティングは常に十六分。そういえばこれの中盤までを書いていたのはたしか二ヶ月くらい前だったと思いますが、 今回日記にすると決めてから酩酊についてのある種必然的な文章の流れがじぶんのなかで存在していて、それは根本的にはじぶんが抱いていた重力という観念についてです。

身体統御の不可能なある状態が訪れたとき、それまでじぶんのものだったはずの身体が「わたし」から離れた異物として受け止められる状況が発生します。このとき、わたしの身体は「肉体」へと移行します。いわば死体的な身体です。この、わたしの肉体を覆っているのは、事物としての肉や皮ではなくてもはや世界という外部そのものがもともと有していた重力です。たとえば、筋繊維をはじめとした器官をわたしはこうして自由に動かすことで生活を営んでいると一見考えがちですが、この前提には外部の持っている重力というものがあって、重力を反発するための器官の正常なはたらきがあってはじめて成り立っています。あるコードに基づいて、何キロカロリーの消費を行い分解と電気信号の伝達が行われることではじめて、重力は「なかったこと」にされるのですが、それは幻想であり、実際には存在していた外部が運動によってかすみ消えているだけにほかなりません。ベーコンの絵から着想を得たのは、身体から突き出そうとしている脊柱、これがいわば外部へ逃れようとする外部自身のはたらきだと感じたからです。肉体は牢獄である、という古い比喩に立ち返るなら、精神と肉体という二項対立が生じるのは言うまでもありませんが、それは違っていて、実際には外部の重力というただひとつと、それを制御するための外部自身の重力というもうひとつが拮抗しているというだけで、それらは同種の重力であって差異がありません。重力とは外部自身の外部による外圧であり、同時にその自重にしたがって随意運動させる機構です。そこに精神はいないし、出る幕もない。ただ外部があって、時折その重さを外部が知るというだけ。舌っ足らずだけど。)

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*1:鈴木敏晴「触覚と粒子でできている:ドガ・ベーコン・そして土方」『フランシス・ベーコン展』東京国立近代美術館