日記:幽霊とファミチキ

前日にひっちゃかめっちゃかに遊んでから朝になって閨に入り、泥のようになって起きる四時や五時の夕方に人間が全員消えて黒沢清の映画みたいに殺風景になった感覚を覚えることがある。とまで書いてみたものだがこの文章はそもそもは下降している精神の状態をキーボードにいわば藁人形的に打ち付けるという願望からなっている。前日に遊ぶと実際そういう気分にはなるだろうがそれはセロトニン分泌が抑えられているからであっておまえがなんらかの人生の真理を見つけたわけではない。

おまえが見つけたのは深い森のなかにたたずむ豹の皮のえもいわれぬうつくしさだけ。日中とは思えない湿気や露に濡らされて、ファミリーマートへ向かいファミチキを買うまでのあいだにわたしは暗渠のようなそこに迷ってしまった。近隣の小学校を通るたびに数年前に無理心中があったことを思い出し、その陰鬱な印象に引きずられて土地に張り付いていたわたし自身への呪いが数カットごとにサブリミナルとして挿入される。実在しない横尾忠則風のY字路がそうだったように実在であっても入り組みすぎた住宅街を抜けていくのは架空に身を浸すのに似ていて、友人や知人に張り付いていた呪いもじぶんのある体験のひとつとして吸収されるようになる。夜道ではもうめっきり想像しなくなったとは思っていたが、向こうから足取りのおぼつかない様子で女が歩いてくる光景を何度も想像してしまって、携帯の画面から目を逸らすこととまばたき(そういう場合に展開を変えてはいけない)を固く禁止して通り抜ける、じぶんの足音がダブって聞こえるような気がしても数日前に行った性交や昼間のことを考えて、大通りがある、ああ助かった、しかしそこから先には人生がある。出来事の解決や遅延によってある世界内存在の瞬間を永遠のなかの価値基準に規定づけ切り取るのが創作物だとかの役割だとすれば、ホラーの場合は一瞬あるいは継続的な恐怖の解決や遅延によってその人間のすべてを暴力的に決めてしまう傾向がわかりやすくて好き。ステロタイプで挙げれば、若者がセックスをするのはそれから無限に繰り返されたかもしれないうちの一瞬でしかなかったのにその一瞬で殺すなんてあまりにかみさまっぽい。惜しむらくはその場合だと死ぬ意味に人間的な感じが出てダサいところ。

そういえば家や土地について考えることが多くなった。俗にいえば引っ越し願望で、あとエイトマイル的な動機と対照的に濃さを増す地元という印象の幽霊について。むかし身体が国であるというような比喩を見た覚えがあるけど、だとしたらこの身体にもいくつもの地縛霊がいるということでしょうか。ファミチキを頬張るとそんなことは忘れてしまいます。でもちゃんと着想を銀色の網で捕まえて注意深く見張ることをしないと、夜道を眺めるように、夜道を眺めて向こうから来るのをじっと待つように、

腰が痛い。炊き込みご飯を作った。酒を飲みます。