ウィンドウズのエラー音

 グースカ六畳の半分を占領している弟の顔を見ながら家を出ると快晴だった。腹の真ん中がじくじく痛んだまま上野に向かう。財布の中に十円しか入っていないような有様だったので、「炊き出し 東京」で調べて上野なら……という塩梅である。だいぶ余裕を持っていたので思っていたより早く着いて、噴水の近くで座って本読んでたばこ吸ってたら宗教勧誘にあった。「仕事も見つかるから」「どんどんよくなる」「面倒は見れないけど」最後が甚だ余計。面倒見てくれ。金くれ。ヒルズに住ませろ。五十がらみの肥えた女の鶏みたいに高い声が不愉快だった。そしてその最中「今日は上野でやってないよ、浅草でやってる」「マジすか。浅草って遠いすか?」「遠いね」などの問答があったため、空腹の体のまままた歩き始めるのを余儀なくされた。歩きながら「なんでこんな目に」って二十回は言った。お賽銭入れて「いいことありますように」って言ったんだけど。賽銭投げてる最中に坊主が金の処理してたからか。あのクソ坊主。無神論者に関して、素朴に、不幸の度量が当人にとって耐えられないとき無神論に走るんだろうと思ってるんだけど、しかしあのときの「なんでこんな目に」はもはやヨブの嘆願と言っても過言過言華厳の滝。ちゃんとけごんって打った。道中、帰り道だろう野球部の中学生が死ぬほど輝いていた。主述文は主語と主語になりえなかったものどもの格差を構成する。要するにめっちゃつらい。

 隅田川沿い、炊き出しの列に混じっているときはキムタクが起業するドラマのことを思い出しながらおれはキムタクだって思いながら参列していたのだけど、ボランティアが言う「仲間」というその二人称に対してすごい闇を感じた。「仲間」、それはたぶん気が立ってる奴に対してのエクスキューズだとか、上でも下でもなく平等であるということを示すための手段でもあるし、それはきっと正しいのだと思うのだけど、よくわからなかった。もやもやした。恣意的な記憶を辿ってみると、飯食うまで「みなさん」で飯食い終わって立ち退き反対云々の話をした辺りから「仲間」って呼称に変わってた気もする。スカイツリーが駆逐したどうこうを考えるつもりはないけれど、それにしても浮浪者がどこに消えていくのかわからなくて不安になった。雑に言えば、生まれたときと同じところであるのは確か。ちなみに配給された飯はけっこう旨かった。南瓜とソーセージとお新香を入れて炊き込んだ飯だった。ごちそうさまでした。

 ふらふらしながら鶯谷辺りまで戻って、そろそろ足が張ってきているのに気づいて、何度かガードレールの上に腰掛けて休憩を繰り返した。苦しんでるっぽいと思うと幾分かマシになった。でもそのあといろいろ思い出して心が死んだ。たぶんこれは死ぬまで治らない。まなざしをメタ化していくこと(山田花子みたいに)が一定数の楽しさを与えてくれたとしても、それは金銭の購いとなんら変わることがない。ましてやその度量が与えたものに対してあまりに少ないだろうことは、考えなくても自明だ。途中で寺に寄って座った。破裂したようなツラのカップルが鈴をジャラジャラ鳴らしていた。日は落ちかけていた。足の痛みが少し引いたので、歩くことにした。

うねり大感謝祭

 軽みを帯びた鳥の息遣いが岩礁の間に間に満ち充ちる。だがここは岩礁ではない。それは息吹の遠のきから推測され、ぼくは耳を欹ててて女の口に横たわっている。右目を。横へ。カーテンのしどろもどろにたゆたう肉体の内臓のはらわたの器官の構成されたところの粒子の一粒一(潰されていく群れ群れ)。同語反復、「ぁ」と漏らすより早く、岩礁の裂け目から流入してくるひかりひかりひかり。光は! ひ、と、が踏み倒した火のことを水は語り続ける、その要請は女の手足のもつれに語られ(ルーズな水音)、催促状のことをきみは閉じられた目や口に語らせ(ルーズな水音)、やがて見える歯は石灰質に変質す、る。そのうすく発光する歯が浮き出してきみの口腔から逃亡する数十秒の間隙さえ与えやしないで回転を続ける回転を回転回転回を回転する、水音。

 ……上昇か下降かの区別の付かない鳥たちに(翼を持たぬものはやがて、)指を向けて水は笑い続ける。水面の中心に浮かび上がる歯。雨が降りしきるころに黒ずむ、虫歯と名指されるが、匿名の歯痛を食らわされる(ゆるやかな溶解。目を塞ぐシーツに生えた黴が昨日の大洪水を物語るひかりひかりひかり、ひだり、めにはえたひ。女の涎がぼくの顔にかかる。うっすらニョキニョキ伸びていく歯で光景が埋まりかけていつ投げたのか忘れた。歯茎が付け足されていく辺りで、指は返済のために縮んでいく。

 息継ぎに吐息が交じってむせかえる。ちょうど墓の裏側を過ぎた辺りで(息継ぎをするように)もう一度咳をして帰路に向かう。夜半だった。蝉はまだ鳴いているので夏だと思う。そこにおいてまだ夏はサイコー足りえるはずだ。きっと。たぶん。おそらく。暫定的には。希望的観測においては。希望的? 希望があるのではなくいるのなら今頃埋立地の肥やしになっているだろう。股を広げて。

 ……丸ノ内の辺りを軽く過ぎて「東京だからね」の響きを咀嚼してオエってなるその作業がそもそも嫌になるというかダサいというかぜんぜんナウくないというかなにを期待しているのかけっきょく期待していたのかというのをグルグルグルグるとわーるさせている。とろわ。車窓は暗い。voirとの連関を持って、光景には常に垂れ布がかかっていて、それは小陰唇のかたちをしている。丸ノ内。薔薇が象徴学的に女性器でありダンテが見た円形の薔薇においてゲーテ的なドウタラがナントカしてるとかはともかくとして、毎月お堀の周りの池が赤くなるのを想像してやめた。こわい。瞬きする女性器からは黒ずんだ涙が出る。こわい。目は閉じられるが、耳は閉じられない。こわい。「垂れ布が落ちる」口に出したところで停車。ホームドアが開く。血の涙がドアから毀れ出る。……

 「楽でしょ?」と鳥型のおばちゃんに言われたので「ええ」と返した。「あーでもさっきね、座ってたじゃない、そこ。そこいつもあたしらが座ってたとこでさっき違うとこ座ってたんだけど、なんか落ち着かないのよいつもの位置じゃないと」「あーすいません」「なんかわかんないけど日ごろ座ってるからなんだろねえ」定位置に。ガムテープははじめ真ん中でアタリをつけて引く。そのあと外枠に張って補強する。01はホワイト。それ以外は左の箱に。袋から出ているものは丁寧に畳んで入れること。コンクリートの梁に頭をぶつけても我慢すること。規則性が際限なく存在を断絶することでその都度自明にわたしであるところのわたしを生かす。あと工場勤めだったヴェイユのことを思い出した。かわいい。棺桶のように開いた段ボールに詰められた無数の女物に射精したくなった。

 

 空の炊飯器は天空を素描するのでもやしがおいしい。豆付きである。夜の陰核が月。溢れる活力。三度まで言うが呪われろ。

卵黄

酔っ払うと天使が縮こまっているのを感じる。容積の減っていくグラスとか「なんでおまえは固いんだろな」と言われた鉄の柱とか、その根本に小さくなった天使がいる。天使はだからこそいまは視線に満ち溢れていて、それはつまりはぼくたちが登ったジャングルジムがむかしは大きかったその意味において、まなざしが(そして名詞が、)落ちてきた意味において。

夜。ぼくは夏の一片とされるだろう。その木漏れの遠のきを止めることなどできはしない。尿石の固まった便器の縁をブラシで擦っているあいだにぼくは二度吐いた。叫んだすぐあとだったので少し喉が痛んだ。丸い痰が出る。

海を見ていること、海たちに見られていること、知らないところにあるほくろがなによりも忌まわしいそのときに、泥土に足は突っ込まれる。かなり臭い。足を水で洗っている最中に陽は昇っていた。友達が写真を撮ってくれたけど案の定写真できちんと笑えていない。ムカデが歩き方を聞かれて死んだ話みたいに、写真を向けられると自分がどう笑っていたかを考えて結局変顔せざるを得なくなる。車の中に入って後部座席で話しているのを聞きながら寝た。

バスケは良い。ドリブルついてるだけでいい。ゴールもいらない。ドリブルついてるだけでいい。おれはドリブルついてるだけでいいので。えー。走るのやだー。新技作るので忙しい。バスケットボールの真ん中についたシミがじっと何者かを見ている。

公園で寝れなくて結局家に帰っている最中、あのまま寝れたらどうなっていたかをかすかに幻視した。きっとこどもの目が見えて、それからその小ささにおののくことだろう。

世紀末試験

はじめ、魂はぴったり六芒星のままで結び付いていたのだろう。それぞれが球体になりたがって回転をはじめたとたんに、すきまにできた三角が刺さるようになった。
朝食のたびに「はじめ、」と繰り返してる感じ。試験監督の号令でいっせいに掻き込むごはん。スパゲッティーだったけど、一問も解けなかった数学の(きっと微積)文字列みたいに、そのまま口のなかに、忘れたみたいにすすられる。証明問題がきらいだった。そもそも眼鏡がなくて黒板が見えなかったので、よく見た映画の内容を必死に思い出していたら時間が過ぎていたことに味をしめて、何回も繰り返していたと思う。まだ誰かがインターネットじゃなかったころ。
部活の休憩中バスケットボールをつついたまま考え事するのが好きだった、そのときに回っていた球体は話しているときにくるくるする指になった。るとわーるだとか言いたくないけど、そうたぶん指はフォークだったりするし、だからそれが空間をどんどん殺してしまう。空間を殺すとそこになにものかを生んでしまうので、よくなかったと思う。頭をかきむしることも同じで、丸を作ってしまったことは少しばかりの罪悪になった。でも、試験監督は一汁二菜の順列を守らせるために「はじめ、」と何度でも言い続けるし、箸の動きは公転の速度で動き回る。「はじめ、」がBじゃなくてAであればよかったのにって話をぼくたちはする。喫煙所で水のなかに突っ込まれていやなにおいをするたばこはかみさまの逆再生で、雨が干上がってくるとそれ見ろ日輪。チャイムが鳴るまでに教室に帰らないと、時計の針が刺さってしまう。

唐揚如来

樹の瘤がからだに移って増えていく夢をずいぶんむかしに見たのを思い出した。保育所のすぐ近くに城跡があって、そこの夢。根本で寝てると瘤がくっついてしまって、かさぶたみたいに掻きむしると灰色にだんだん変わってきて、取れないなあと思っていると目が覚めた。たぶん昼頃で、鳩がポーポー鳴いていて、弟は寝ていて、母親は洗濯物を干していたりする。海沿いの、堤防を少し下ったところに家はあった。家の裏は雑木林で、神社があったように思う。湿気た草と塩水のにおいがする。
幻覚がどうにも嗅覚に特化してきたみたいで、なんにもないところでにおいがするようになってきた。潮だったり飯だったり香水だったり酒だったりする。空腹に耐えかねた脳が代わりのものと言って渡してきているのだろう。必死に棚を開けて、へそくりでも探している。
友人から久々に連絡があったので出てきて酒を一杯だけ飲ませてもらった。元より百円しかないけど、と思って財布をひっくり返すと三十三円だった。記憶をそのまま売り飛ばせたら、というのは世にも奇妙な物語でやってたはずだけど、記憶はいわばひとつの負債なので実際は不適切だと思う。記憶は、ことばと同じように本来「それの存在」ではなくて「それでないものの不在」というものであって、それでも言い切ろうとするときは必ず、ぼくは知らない間に一度口を噤んでいるのだ。軟骨唐揚げを噛み砕きながら(いまだってその感触が残っている)、ビールを口内から排除しているとき、ぼくはありえた記憶という膨大なものに対峙させられる、そう思うと感触はあまりにもさびしくなってくる。黙るほかない。ましてそいつは不在のときにこそ膨らんでいくのだし、たぶんその色は灰色で、潮のにおいがする。

地元の博物館の原始人の人形がこわかった。小学生の時に遠足かなにかで行って、暗がりで、下から照明で照らされて獣の皮を着たカッコ付きの「人形」自体にそのひとでなさを感じてこわがるっていうのはもちろんあることだろうけど、それ以前にこの人形がこのまま何十年か安置されて、せいぜい数メートルくらいしかないまして仮想の草むらの間に間に静止し続けているのだろうかと思うと、ぞっとした。かれは背景を背負ってずっと沈黙して、一方だけ見つめている。

歩いている最中、石畳の裏をひっくり返すとたいていフロッピーディスクが埋まっている。たぶん三か四メガくらいのもので、カビが生えていたりコーヒーをこぼしていたりして、きたない。中空に浮き足立っていないと、四角の瞼が重く開いて銀盤の眼に睨まれてしまう。それがいやでまっすぐか上かってなると次は通行人と目が合ったり信号と目が合ったりしてとうとうアンダルシアると、今度はそれがもともと言葉だったことを忘れていたから、けっきょく睨まれる。まなざしから逃れるために目をつぶっても、どうしようもならない。まなざしまなざしと言って、モズノハヤニエだなんて思わないけれど、スーパーでたまに売ってるタイプの魚くらいは想像した。食卓に乗った魚の白くなった目を食べても、赤血球や酸素も見るだろうとなると、さすがに困った。原始人はすごい。けれどああなりたくない。毎秒、円盤がグルグル回ってかなしい。