涅槃灰皿

「食べよう!」って言って彼がJR巣鴨駅出口で韓国海苔の袋を開けた瞬間無惨海苔は散らばり、無言で顔を見合わせながら池袋に向かうべく足を進めた。待ち合わせの時刻には雨は止んでいて、往来の多さがとても日曜。海苔を拾うわれわれにどいつもこいつも見向きさえしなかった。ベース背負っておっちらえっちらしてる最中、古着屋で買ったジャケットがビリビリ不穏な音を立てまくる。路面はビシャビシャ梅雨にまみれていたし、落葉はふやけて体積を広げて水溜まりのなかで沈んでいた。電柱に二三度ケースをぶつける。朝からなにも食べていない。あってもたばこか水。道中飯を食うか食わないかでしばし話し、どうせだったら着いてからラーメン屋とかサイコーじゃんとなったのだけど、着いた頃合いにはもう時間がなかったので不遜な表情でマックで「チキンクリスプとハンバーガー。あと水ふたつ」と言う。
四時を過ぎた辺りでいろいろ済んで、帰り道はふたりでジンギスカン屋に入る。「貸しだからな」とは言っていたけどおれの方としては踏み倒す気マンマンで食べた。会計は二千円ほど。ソーセージがおいしかった。果てしなく肉で動物性たんぱく質を身体に感じた。会話内容としては「北海道出身者も地元のより旨いって言ってた」などの食べログ的情報や、「えーこれが八百だから」などの目の前勘定。あと入った瞬間メニューの横に五ミリくらいのゴキブリがいた。とっても暗喩。
「サイコロで偶数か素数が出たらビール買おう!」というわけで偶数が出て、帰り道も歩いて帰る。コンビニを見つける度にイェイセーブイェイと言いながら五百ミリの麦とホップを買い乾杯を繰り返す。日曜日の大路にウゾウゾ集まった群れが缶ビール片手に歩くおれたちに掻き分けられるさまはまるで出エジプト、とでも言えればよかったのだけど、やっぱり誰も見てない。こわそうなにいちゃんにぶつかることなく「あっこからカップル出てきたのみたときはなんかすげー気分でした」「いいじゃん」などの会話をした。あと業の深そうな話もした。大塚の辺りでぐらぐらしてくる。夜はやや近づいている。荒れまくった彼の肌を少し見る。ビールは旨い。こっちは奢ってもらった。
地面ペタペタしながら巣鴨を目指す。着いた。いろいろあってバイバイする。同じようなことだ。すでに夜になっていた。街灯もさんざめき、ケースの重さを感じながらまたえっちらおっちら歩く。この分ではもう、濡れた落ち葉も公園に捨てた缶も見えなくなっているだろうと思いました。

Aはガンガン晴れおまえの声なんか聞いちゃいない

「あれこれいけるんじゃね?」「いけるっぽいよ」「やるべきだよ」「いやほんとぉ、マジでこのライブにぃ」うんぬん。地下鉄過ぎて粒子が飛び交うああ東京これよ東京って死んだ目で呟く先に幻想し、めーるしーめーる彼女のメールの文面どもが流星群のように降り注ぐ明け方か夜半か知ったことじゃない。知るか。(行く先は小さいハコでした。新宿あたりでGW(承前:がなりわめく)になにやら魑魅魍魎が集まるイベントがあるそうで母親からくすねた金を握りしめおずおず入るとなるほど魑魅魍魎の巣窟で、絶滅危惧種と思しきベルボトムとたばこの煙と不機嫌そうなブスの群れ群れで、わたしは質量そして湿度の高い闇闇闇、いい加減にしろ、もうたくさんだ、吹き飛べ、そのさかしらなペンタトニックとマイナーセブンをやめろ!とっとと照明落ちろ、

声、こえ、むこうえ、向こうへ公園
(メチャクチャ記憶が飛んだ。)

記憶が飛んで起きる度にあの薄くて泥土らしいかなしみを酔いざめの水や煙草やそれらで噛み締めるわけだが、子供の頃練った泥団子を思い出すに(鰻屋の息子の彼がひときわ固いやつを作ったあのやり方だ、太陽に何度も時間を転がして当てて)カッチカチになった泥土は少しくらい殴ってもいっこうに崩れなくて、おれたちは最初は喜びテラスで互いの球体を賛辞したものだったけど置いてるうちにだんだん鬱陶しくなって、あの球体がなんか均等すぎていらいらして、けれど鰻屋の息子製法で固められた泥団子はほんとに完璧な球体で硬度を放っていて壁に叩きつけまくったのに一向に壊れず、おれたちは遂に嫌いなやつの顔面にそれを投げたらもはやそいつは石になっていて発狂する保母とやつの親に顔面を何度もビンタされながらそれらをぜんぶ没収された、一個だけくすねてまだあるそれを眺めて壁にぶん投げる午後は鈍い音の広がる空間で破裂音はいっさい鳴らないのだ、ほんとうにむかつく、むかつく、く、あ、かといって完全無欠に固められた泥団子を完全無欠に固めたのは自分だというその事実そう事実を突きつけられてしまうとどうにもうずくまるかぶん投げるかうるさいと怒鳴るかそれでも泥団子は一向に崩れなくてアア泥団子のくせにって何度も何度もうずくまったりぶん投げたり怒鳴ったりを返す返す夕暮れだから渡り鳥も帰ってくるしお家に帰らなきゃと財布漁れば鍵はないしなくしたのはやっぱりおれでトボトボ地下鉄の沿線を歩いていたらたぶんこれは約束されていたのだろう夜の湿度を孕んで重くなったあのいくつもの泥弾がさんざんにダカダカダカダカファンファーレを立ててある人には救いである人には火だろう泥団子を爪に挟んだ渡り鳥たちの頭がふたつに生えて熾に輝く目と翼を持っていてその度にアア泥団子さえ作らなければ泥団子さえとおれは思うのだけどお家に帰れないし公園に行ってあの鳥たちを落とすために泥団子を作るしかなくて渡り鳥の責め苦から逃げ出して公園に向かうしかなくて着いて見るとやっぱりそうだった砂場のあたりで地に生えた草花に鼻を押し付けている子供は鰻屋の息子でおれはすべてわかった。

ビートビートビーツ

たぶんあのおっさんが読んでたのはかまどに突っ込まれた教皇の絵のところだ。それか怪獣の背中に乗って飛んでくところ。目が悪くて見えなかったけど、ドレの絵だったのはわかったからたぶんそこいら。地震があったのをあとから知ってキリキリキリキリ歩いて通行人の顔見ながら「平気な顔で休日だ」と思った。交差点で街路樹と目が合った。かなり緑くさい。
生まれた月も季節も死ぬほど嫌いだ。性欲に押し潰されそうになる五歳ごろの日曜くさくて、なによりこの休日感が嫌いで堪らない。休日。することがない。安息日。なにもするんじゃない。「神は六日で世界を作り七日目に自らの命を絶った」とは死の王。ちなみにヨーロッパの暦は日曜日に週が終わる。死体の日からおれたちの生活は再開されるわけだ。かっこつけしい。今日月曜だし。とにかく五月が嫌いで、休日のあの終わらなさってより終わった感終わる感がずーっと続くのすげーやだ。両方やだ。
一昨日あたりかんけりして、まさにこれぞジーダブリューという塩梅で、いい家だったんだそれが「◯ちゃんみっけペコポン」、繰り返せ「◯ちゃんみっけペコポン」。記憶どもと闇どもの相互監視(略せ相姦)システムからペコで子宮がイッて震えポンで排泄されるこれぞまったき休日、休膣?安らかに眠れ。かまどにぶち込まれた教皇とシヴァリンガとその子宮内膜の雑菌に過ぎないおれたちを「みっけ」「ペコポン」するおまえの目はおそらく香油に染められて緑色に光り渡っている。目と目が触れ合うころ唇が触れ合うころ深夜のギターの弦がちぎれるころラインの緑色に当てられて何度死を妨げられたかを数える◯ちゃんを「みっけ」「ペコポン」。おまえは休日の神、休みの国の王、おおペコポン神、安らかに、安らかに、そういえば原宿で服買いました、安らかに「みっけ」「ペコポン」、安らかに、

GWは「がなりわめく」と読め。

見渡す限りのそうめん(液状)

「蕁草になって……」みたいなことミリアム・グェンが言ってたけどだいたい突っ立って突っ立ってるんだからそれ以外にないよな鮭とかカマキリとかそこらへん、って思いながら起きた。いろいろあった。風邪引いて死にかけてたけどそのままサウナまで五時間くらい歩いたり新宿から原宿辺りまで瓶持って徘徊したり酒飲んだり飲んだり。ヤバいヤバい人生よ、人生よ、と歳が重なりつつある状況でわりとその闇さ(なんてないことだけど場末の酒場の代わりにインターネットが使われて、人間はこうなっていくんだなあ情趣満載だあというアレだ)が形を伴ってまさしく顕現してくる。だいたい黒い例のやつか子蝿の形、もしくは暗い部屋の女の裸とかで。『ヴァリス』をちょくちょく読んでるんだけどファットのメサコンは『女たち』で引用されてたアレっぽい。九章。「Dixi, et salvavi animam meam!(私は語った、そして私はわが魂を救った)」ここらへんはファウストのアレをアレ(はじめに言葉ありきを行為に置換するやつ)したら通りそうだと思った。かと言って手続きが煩雑だし単にかっこつけしいとこはある。闇、闇、たぶん農家の娘のオナニーみたいな(前近代的な風景どもの)精神が一向に変わる気配がない。だいたい池で溺れて死ぬ。ちょうど五章六章くらいからreligionが横たわる男性器のアナグラムだったの思い出してそれに群がる蛆や蝿がハエトリグサの天使にぶっ殺されていくのがずっと浮かんでた。串カツ屋のキャベツの色をした羽根が都庁辺りを遮るとそれはぶっ倒れて蛆はやんや言って蝿は喪に服す。そして空から無数のバルサン。その苦しみの右往左往の最中に坩堝か塔かを半ば強制的に選ばされるわけだ。そういえばクローネンバーグの裸のランチは除虫剤を飲んだりスニったりしてラリってた。ソーマの代替はあっても儀式が欠けてるから呪術未満なのではないのみたいな所感。空中分解してきた。いいや。日記だし。とりあえず闇が深まっている。あと酒飲んだ。えのきうまい。さいきんは元気。あした母が来る。諭吉を引き連れてきてくれたら大文字のママって言ってあげる。お金に去勢される。蕁草のはずなのにちっとも立たない。

追記:ファットのメサコンいまのところ誰のためかと言えば自分なので「わが魂を」というところに着目したい、ずれてたら知らない

記憶がジェノサイド

起きて弟と「オムライスいるか」「くれあと水くれ」の応酬から二度寝して、債務や責務を忘れあと親に飯を無心した、オレキトクカネオクレ、頼む。十二時頃合いわりと絶望して(オムライスはおれが米炊くの失敗したから弟いわくは20点だった。おれは豚のように貪った)、じゅぎょーじゅぎょーと言いながら髭剃らず家を出ると真っ先に春風で記憶記憶記憶でわりとマジでジェノサイド。この間花見したときは近隣のあのおじさんおばさんたち(ネットによくいる)の実在性を確信して、トリガラおばさん相手に「ぶっちゃけよくわからんやないすか」となぜ初対面の人間に色恋どうよみたいな話してんのか自分でもわかんないままベラベラ喋ってて、たまにゲージュツってこれやん論をして、自分の行為の軽薄さに帰ってから死んだ。おじさんのひとりがツイッターやってたからフォローして、自分の頭の中にある姑息さどもとその撹拌のたぐいにやられてすぐブロックした。一生会わないと思う。別離の兆候と言えば友人が付き合い始めたと同時にまた別の友人は別れたりしてアー春だなあなんだろなあなんか死なねえかなあってなった。記憶はぬいぐるみみたいなものですがりついてるとその内ハウスダストにやられて鼻水がズルズル出る。そいつらが目に見えるとなおさらだ。
本の代金を無心してそっちは成功したのでお外に出てから歩いて歩いて駅に行って(間にたばこを買って)神保町まで行った。教室隅っこ系アベックの群れ群れと「とにかくセックスしたい」と「あーでもそれで」と信号機の青と緑の区別と肩甲骨近くの皮がつかまれる感覚とトイレで見る自分の死んだ目と涙袋松屋の牛丼と眼帯とマスクと金麦の缶とロングピースデーヴァナーガリー文字と記憶記憶記憶、サンスクリット語の教科書、四千円。約一カートン。戻ってきて友人たちに会って限界だったから居酒屋で「とりあえず今日は死にたい」みたいな会話をしてまた記憶記憶記憶。コイントスは失敗、おれはお家にとぼとぼ帰る、向こうの空の明るさからぬいぐるみたちの空襲を想い浮かべる。

レペゼン、レペゼン

地下鉄の切符買って税金の十円分に魂を食われ死んだ目でウネウネ動く列車に乗ってたら体のウネウネが同調し始めてウネウネなりながらこのウネウネで光合成して永遠に生きられないかしらと思うんだけど無駄なあがきだ。渋谷に着いて表参道で降りた外人の末路想像したりしながらいたらマルキューナウい)の方面の出口とはまるっきり逆の方向に出たので思考を恨むより誰かしら呪ってたほうが楽だよなーと思う。行く前に飯食ってたらゲロみたいな玉子丼から弟の香水のにおいがしたのを思い出す。あと友達のライブ見に渋谷に行ったときけっきょく一時間くらい迷って電車賃使っただけだったのも思い出す。日雇いの説明会というのでやったあこれでおれも西村賢太だと不埒な誇り振りかざして暗いビルの六階に入ると前髪シールドの小隊がぞろいた。「今日って何日でしたっけ?」パンクスっぽい兄ちゃんが後ろの席で言ってるの聞こえたりする。極めて示唆的。何度も何度も「今日は何日でしたっけ?」を繰り返さないと夏休み明けの小学生のようにみんな魂が食われてしまう。メトロはキリスト教っぽい、山の手は仏教っぽい。印鑑押す手がウネウネして照準をミスったから残った朱肉を噛みながら家帰る。光熱費が不安。もっと光を。