小説:皮膚のイ、縦書きの雨

 犬の表面がぬめぬめしている。驟雨だった。舌打ちと歯ぎしりを入れかえながら男が雨戸を閉める。最初は弱拍からはじめて、ゆるやかに大きくなる。トタン小屋のなかで火をつけようとするも木材は湿っててんでつかない。舌打ちにクレッシェンドが混ざる。穴からもれた雨音は規則正しすぎる十六分音符だ。

 犬は終わりかけていた。雨に打たれすぎたのが悪かった。はじめのうちは正三角形だったのにもう四角形である。このままいけば五角形六角形と増えていった結果、球体になる。球体になった犬ははねるしか能がない。ただよろこぶにまかせる犬の姿を見るのは三度目だった。つぎの犬を逃すともう外には出れなくなる。そのうちにじぶんも丸みを帯びただけの夜になってしまう。犬はころがって、かなしい三半規管で男の苛立ちを感じているが、男は吸い殻を集めて種火にしようとしているさなかだった。若い膚はぱちりとはぜる火が照らすのに合わせ血流を増やしたが、あたたかさを与えるだけで想像力は与えなかった。座り、ぬれた犬を拭くためのタオルを引き出しから取り出そうとすると、右手はもう終わっていて、中心にはかつて存在していていた手のひらの残骸らしい穴が残っているだけだった。

 すり減った奥歯で部屋の六隅にある鉄筋を噛み締めて、穴にねじ込む。そのつぎには梃子の要領で一番下の箪笥の戸を引いた。角数の増えてしまった箪笥はあきらかに膨張しており、そろそろ八角形になる。「ゴムまりのような乳房」男は発語する。引き出しには、薄いピンクのタオルがひとつだけあった。かつての持ち主だったろうものは、いまではスーパーボール状の肌色で相模湾をたゆたっているだろう。

 犬は、光沢を増す脚を持ち上げながらノミ掻きをしようとしている。左手でタオルを持ったまま犬に向かうと、犬はやわらかすぎて尻尾のほうまで曲がった脚をくわえて鎮座した。
「ごめんなさい、どうしてもかゆくて」
「いいさ。それより外の様子はどうだった」ぬめりをこそげ落としながら男が返す。語気は柔和でも、怒りを沈めた様子なのが、犬の肌をこする左手の強さでわかった。
「橋をわたったところにある終わった詩が、まだ高速で回転しているの。朝になればやむとおもうけど、止めに行った鈴木さんが丸くなっちゃったわ」
「鈴木さんがか。むかしはあんなに尖っていたのに」
 かつての歌舞伎町――現在の「ひまわりゆうえんち」――で、鈴木さんは大立ち回りを繰り広げていた。関東連合のOBもいたというのに、ビンゴ大会で鈴木さんはひとりでモンサンミッシェルの八十年物を飲み干したしたのだ。
「先端がいちばんうまいんだよ」コルクをバリバリと音を立てながら食べていたあの屈託のない猿のような笑みが浮かぶ。いまのように家にピンクのタオルしかなく、吸い殻を集めてわずかな火種にしているなどといえば、あのときの面々はだれしもが金をせびるための口実だと笑い飛ばすだろう。
「橋はどうなってるんだ」
「橋、終わっているわ」犬がきもちよさそうにのびをすると、そのまま回転して胴からねじれてかまちの下にころんだ。男はタオルを畳に放り投げる。ぬめりを吸ってふくらんだタオルは部屋のなかにあるほかの球体同様にぎゅううっ、と断末魔めいたラの音を立て、毛羽立ったその表面はしだいになめらかになっていく。やがてピンク色の光沢を放つ球体になった。あれは最後のタオルだが、犬はまだぬれている。
「わたしもそろそろだめね」
「そんなことないさ」
 男の口から出るのはそっけない慰めばかりだったが、犬もそのことをはじめから知っていた。こんな状況にならなければ、男だって気の利いた台詞のひとつやふたつを吐くはずだった。ねじれる犬を横目に、男はどうやって明日を過ごすかを考えていた。最悪の場合、より最悪の場合、最悪に最悪の場合、と、思いつく限りのいまよりも最悪な場合を考えるのが、男のせめてものなぐさみであり、解決策だった。
「うみがみたかったな」

 犬がきしみながらいう。火がにわかに消えてくる。この犬が何度めかはわからないが、おそらくもう帰ってくることはないだろう。男の腹の中にあった苛立ちが、別の感情に結実していくのがわかった。
「いこう」唐突に男が立ち上がる。開きっぱなしの箪笥の引き出しを左手で持つと、そのまま一気に引っ張り出す。右手に刺さった鉄筋で、引き出しを突き刺し、即席の傘を作った。犬は困惑しながらも、ねじれるのに身を任せてている。

 

 へしゃげて八角形になったトタン小屋を出ると、ぎゅいいいと「傘」が悲鳴を上げているのが聞こえた。やわらかくてなめらかになってしまった犬を小脇にかかえながら、落とさないようにしながら、男は道いっぱいに広がるいくつかの肌色の球体に触れないように歩いていた。肌色のひとつに、「す」が通り過ぎる。「す」は肌色の角を取り去り、光沢を増した。

 ことばが世界を取り分けるものであるとき、それは現象の角を切り取るものとして動いていくだろう。そしてまた、主体は決してわれわれではない。前の犬はいつかそんなことをいったことがある。その犬は利口だったが、しかしじぶんが外に出ることに対しては利口なあまり保守的だった。もし、あたりいっぺんを丸くするそれが言語だとすれば、おれが発しているところのこれはなんだというのか。男はそういいながら前の犬を叩き出したことを覚えている。

 雨はぼたぼたと引き出しを打つ。トタン小屋のまわりには九角形や十一角形の同様のそれが並び、難民キャンプを想わせた。ことごとく遠くに見える建築物は不規則に丸みを帯びていて、都庁はもうその先端がくっつく手前だ。コクーンタワーは、元からかたちが近いのがよくなかったのだ、もはや完全な球体に近づいている。犬を握り、その内臓と可変的な骨の感触を確かめる。そこにはたしかに空隙があり、それが男を安心させた。完全な球体には空間がなく、さもなくばそれは内部の圧力によって可塑的なものであるからだ。

    外は夜に近いのか昼に近いのかわからなかった。真っ白にふくらんだ空があった。
「いいの」犬がいった。トタン小屋の面々が雨戸のすきまからこちらを観察している視線が感じられた。同じように、男はこんなふうに外を出歩く人々を見ていたことがある。気が狂っているのか、という憐憫と嘲笑混じりの視線だ。いまではじぶんが向けられる側になっている。いうなれば、ほんとうに気が狂っているのかもしれない。だがふしぎと楽だった。隣の家に忍び込み食料を強奪することも、住処を得るために鉄筋を振り下ろすことも、見せしめとして雨のなかに誰かを縛りつけておくこともしなくていいのだ。

 都市はもはや裏返しになっているといえる。球体の接面を相互につなぎ合わせようとする光景は、無性生殖に似ている。たとえば原型をとどめていたはずの東京タワーはものの見事に球体化し、それと同時に引きずられた御成門一帯や増上寺は緑や茶色に悲鳴を上げかがやきながら近づき、分解と再構築をくりかえしながらまだらな玉として完成していった。その表皮には三田線の車両とホームが張り付き、雨が降りしきるにつれて次第にそれは没個性的な白や黒や青のなめらかさとしてのみ映るようになっていった。
「いいさ」男がいった。「傘」は思ったより限界が近く、へしゃげた互いの辺がもうすぐその接合を待ち望んでいるようだった。一歩一歩を進めていくたびに身体が丸い終わりに向かっている。

 犬はじぶんの矮躯から離れようとしているかなしみに対してその焦点をずらさないように、注意深く感情の律動を観察している。ある哲学者は「かなしみそのものをそれがかなしみであるという理由で愛するものやそれゆえ得ようとするものはどこにもいない」といったが、犬に関していえば、それは自らを構成するかなしみ自体に向けられた愛慕であるといってまちがいない。そういった犬の精神の動きに対して、男は鈍感だった。だが、その状況の犬に対して、男はいささか倒錯した安堵を覚えるのだった。

 球体に近づくバラックの群れを通り抜けていくと視界が晴れて、そこには河川敷があり、その脇に巨大な球体がいくつか並んでいる。住宅街だ。木造も、鉄骨も、RCも、のべつくまなく密集した距離が近すぎたせいでいまではよろこびに満ちあふれてひしめいている。犬の体温はだいぶ下がってぬめりも増してきた気がする。コードバン状になめらかに仕上がった犬はどんな動きをするのだろう。
 目の前では終わった詩が高速で回転している。 巻き込まれた鈴木さんは誰もいない陸橋になっていた。誰もいない陸橋とはすなわちそれが観測されることさえ許されない存在であるが、その外延を隔てるべき雨が、男と鈴木さんのあいだに平等に降り注いでいた。詩の輪郭からは金色の汁がでゅるでゅる飛び出し、周囲を表現主義に染め上げていく。終わった詩は 

           き

               ん

                   い

                       ろに崩れ鈴木さんを陸橋化する。

 犬がうめいて、男はある素朴な観想に至った。この世が神の夢であるならば、夢見られるわれわれに夢のすがたはちょうどこんなふうにいびつなのだろう。夢見られるわれわれは神の無意識によって存在のための糞の響きとして象られているのだろう。

 鈴木さんは絶叫する陸橋として肌色の鉄骨をむき出しにしている。好々爺然としていた狒々状の鼻はアーチ状に伸び収縮し、終わった詩は副産物として周囲に五感をばらまきながら拡散されている。帝国がその領土を広げるさまに似ている。きりもみ運動をくりかえして最後の飛翔を遂げている鳥が落下し、陸橋と詩に巻き込まれ、口から記憶をよろめかせながら歴史を量産した。歴史は五本の脚を持った外骨格性の動物で、特有の粘着質で鈴木さんに塗装されたモルタルを吸引しながら節足を丸めていく。 陸橋はもりもりと巻き戻されている。これでは渡って海に行くこともできなかった。急ごしらえの傘もどうやら寿命らしく、頂点を伝って雨のしずくが頭頂に当たるたびに終わっていくのを感じていた。見れば、犬もどうやらいまではとらえどころがなくなっている。それはかつて犬が女であったころの様子に近い。
 記憶の余剰は一度突き放されることででトラウムとなり、新たに反復されることで統合される。その主体が男であるのか、それとも犬の側であるのかは男にはわからなかった。犬にとっては、男こそが呼ばれた記憶であり、男にとっては犬が呼ばれた記憶であるに過ぎない。「後の日の量子的統合」、と前の犬はいっていたが、それは膨大な情報を圧縮することになる。すなわち質量を持つ。夢見る神がわれわれを夢見ているのだとすれば、その夢の終わりとは神の記憶がことごとく処理される瞬間にほかならない。神の似姿であるわれわれは、その魂のかたちを整えるべく生成変化する。閉ざされたモナドへ変化する魂の響きは、神以外の外部をどこにも持つことはない。

 終わりの圧力によって鉄筋はへしゃげ、ぽきりと折れるとみずからのうちに隠遁した。男は、繰り返し蚕や椅子として変わり、だれかの記憶の統合としてあつかわれていた。犬もまた、おそらくは――その主体がなにものかを使役し、みずからの余剰としているのだろう。傘はいまや分解され、引き出しと二本の鉄筋として分解されている。だが、かつて傘であったこの要素たちは、その目的的身振りによってこそ、目的の外へと連れ出される。螺旋状に解釈された目的は、目的自体に対して自己言及的に遡及する。

 犬はいまやよろこびに満ち溢れて、その充実した身体ではすべてが非可塑に完成した。男も同様にじぶんの身体に流れ込んでくるものの存在を知り、身体が巻き戻されていくのを感じた。わずかな共時性のなかで、男と犬は海を幻視した。相模湾だ。そこにはあのピンクのタオルの持ち主であっただろう女も浮かんでいる。養殖されるべき海苔は、海の凪でくろぐろとかたまり、帆船は三日月状に縮みあがっている。それらがなにものかの見ている夢であることをかれらは知っている。雨はひとしく降りしきり、それはかれら自身の夢の胚胎を予感させる。

 ドンブラコと音を立て、夢は夢見られるべく丸まる。