日記:文は剥がれ、(家族と場所)

タイトルは中学生のとき読んだ現代詩のもので、毎日新聞の書評に載っていたような気がする。

昼間に日記を書くのはわたしが禁治産者か無職かあるいは人のプーかの三択の内から端を発しているが、編集のえらいおじさんがわたし以外のための花を買ってくるまでの一時間半のあいだにこの日記は書かれます。

上島珈琲店のモーニングセットのねばっこいバタートーストを紅茶で嚥下している、先刻は子供がめちゃくちゃにはしゃぎ回ってぬいぐるみを振り回していた家があった。高校時代の記憶を反芻するだけのあわれないきものになってしまったので(なにが、ので、だ)、エントランスからの動線としてリビングが中心になければ家族間のコミュニケーションが取れないとさいしょに決めたのは誰だったのだろうかと思い出している。思えば我が家のばあいは築四十年以上の木造住宅だったので、となりの家のモラハラ気味な婆の鳴らす三味線の音とベースギターでセッションができるくらいには壁が薄く、また、たしかにエントランスからの云々という話でいうと玄関からわたしの部屋である二階が直結しておりそれはつまりメシ以外は親と顔を合わせなくてもよいということを表している。世間は悲惨で、実家住まいのすのこベッド四畳暮らしやプライバシーの消滅した居室を有するこもごもがあふれてはいるが、わたしのばあいは万年床と弟の麻雀の音があるいは生家の原体験として残っている次第です。家という記憶がある。考えてみずともそれは場に残留していた書物やCD、そして多くの老廃物によって構成されている。精神衛生という面でエリクソンのいっていることは至極正しいとわたしは思っているので、住環境がある呪いとして人に作用することは理性のみではどうも撥ね付けられない事柄であると感じます。生活のリズムは神を賛美するためのフーガの片方であり、それは他者-わたしの二項対立かあるいは世界-わたしの拮抗する戦争状態にほかならないわけです。ボルヘスの短編ではくじで互いを使役したり支配したりする環境が描かれていたが、まさにそうした偶然性と互いの領土関係の契約の根源的な様相としての家がある。こどもがたとえば親の残虐さによって発生する偶然性だとすれば、その場にも暴力的なまでの偶然性というのが作用しているわけであって、中国のことわざでは前世の婚姻関係や契約関係が現世に表出するというロマンチックなものがあったはずだが、そうした必然への回収がこどもと場に対しても行われる。家父長制の重圧だとかではなくて、これは家族がそして家が物語を必要としないと成り立てない、あいまいだけどすごく強すぎるなにかであるということだ。誰かがきっといっているだろう。インターネットで「呪い」がまことしやかにその効力をささやかれ始めても、地方ではいまだにトタン小屋でマジで暮らしている百キロ近くの肥満児がいることは事実であり、ここ数日の田園都市線の遅延のごとくかれらが「呪い」に気づくにはあと数年は待たないといけない。家に根ざしたホラーこと呪怨が時間性を何度も往復できたのは、家族の系譜とは先述した中国のことわざのごとくある種即物的な空間性や肉体性によってはじめて成り立つからであって(あの場合は恋人という関係性だ)、会わなくなった家族は力場を失い「気心の知れた友人」や「なぜか毎回ごはんを作ってくれる人」に変質してしまって、それは物語のなかにいたころの憎しみや恨みや気まぐれのやさしさが引き起こすよろこびなんてものをまとめて消し去ってあいまいな「場の人」に変えてしまう。それは家族物語の幽霊みたいなものだが、そこでついついじぶんも物語を欲望してしまったりする。音楽への欲望や、食事への欲望や、にんげんを構成するにあたってその個々人の「のっぴきならない欲望」というものがあるが、家族への誘惑に人は勝てない。単一個体だったジェイソンが一家になってしまったり、貞子が伽椰子と合体してしまったり、富江が自己増殖を重ねることで擬似家族を構成しあるいは殺し合ったり、物語への誘惑という場から逃れることは出来ない。生活は物語そのものの本流で、皿や冷蔵庫や飲みかけのペットボトルはわたし自身の血や肉の戯画化であり家族の象徴です。家族を毎日捨てながら暮らしている。領土を分け合ったり奪い合ったりしながら、お互いに傷痕をつけようとどうにか画策している。テレビのリモコンを取り合って弟を泣かしたことのある人ならわかると思いますが、あれって泣かしたあとに「これ(リモコン)は本来そこまで欲望してなかったな」と感じてしまうんです。泣かされた方からしたらたまったものじゃないけど。空間に別のテレビ番組があるだけでじぶんの領土が侵されてるなんてあまりにもバカバカしいのにお互いがプライベートである場だから発生する気がする。そんな弟も「場の人」になって先日は家にWiiUしに来てた。秋ですが金木犀の話はしません。銀杏のにおいがきつい。嫌なやつ全員の押し入れに転移してほしい。押し入れの話はやめましょう。

日記:建築についてわたしが知っていた二、三の事柄、あるいはバベルの塔へのわずかな憧憬

製図台から離れ万年布団でうめき声を上げながらASA-CHANG&巡礼を爆音で夜中に流していたのが高校生のわたしで、ヤングジャンプに出てくるヤンキー漫画のザコみたいに灰皿や酒瓶が戸棚に隠してある。床には教室以外で読みもしないバタイユの箱本がごろついていて、定規や種々のシャープペンシルが転がる、図面の鎮座する机は見えないように卓上灯を天井に向けている。建築学科に所属していたわたしは、明日に訪れる課題の締切が嫌すぎて、「頭が痛いはず」と自己暗示をかけていたらそのうちほんとうに頭痛がするようになってきたころ。引き寄せの法則キョンキョンの「せ、な、か」という美しいアンビエントボイスを聞くといまでも当時の状況が蘇り、冷や汗が手に滲んでくる。記憶が悪いだけで、いい曲です。当時の記憶のせいで聞けない曲はこれ以外には筋少のサーチライトです。やっと慣れてきた。

「一度描かれたものを書きたくない」という意味不明の自意識が、小学生のわたしが漢字ドリルをしない理由として掲げられていたが、16や7になってもその性癖が抜けずに担任からのバイブレーションを待つことに焦りと恐れを感じながらなおも作業せずこまねいている。浅はかであるし、愚かである。人間は人間の模倣をしながら人間になるのだ。幼児を見ろ。製図台にマスキングテープで貼られた製図は住宅の凸型の土台のものであり、基準線を2点鎖線で引いたきりで、「モルタル仕上5mm」の文字などはない。しかし書きたくないのは変わらず、しかし書かないと怒られるし、書かないといけないのもわかるし、などという煩悶や怠惰や罪悪感への言い訳や親譲りの無鉄砲を繰り返して、やがて深夜を過ぎ、弦高の上がりきった弾きにくいベースを置いて、作業時間を想像するが、朝刊の原付の音が聞こえて、心臓の鼓動が倍テンになる。焦燥感で「ハワイ」と口に出すが、眠気覚ましのつもりで買ったはずのエスタロンモカをODしていて不安感と胸の痛みでそれどころではない。7時までにあと3時間、進捗がよければ内部の上書きまでできるはずだが、引くべき線の長さがわからない。用紙に記載された仕様を確認して、基準線同士の間隔から明確な長さを推測する。記載されているのは1820mmなので100分の1縮尺の図面では1.8センチ。メモ。数分経つと、メモしていたはずなのに字が汚すぎて読めない。また調べる。引いている最中に芯が折れて散々なことになる。消しゴムで紙が表面的に荒れる。台がずれていることに気づく。叫ぶ。明け方なのでよく声が通る。枕に頭をつけて叫ぶ。父親の目覚ましの音が鳴る。聖者の行進。「おはよう朝日」のエレクトーンの音。母親が洗い物を始める。煙草を吸う。いますぐ海に行きたい。

 

ブリューゲルバベルの塔展にこのあいだ行った。展示は主にオランダ系美術を中心にしていて、トリを飾るのがブリューゲルの描いた二作目のほうのバベルの塔。会場の中は最終日近辺でごった返していて、抹香臭さや香水、あとはボディミスト、食い物のにおいなどが混ざって展示されていたボスの版画のようにごちゃごちゃしていた。プロモーションが多分に上手なところだったようで(たとえば硬派な展示は日経とかがやっているイメージが強いんだけどこれはもしかしたら偏見かもしれない。)朝日だったからか大友克洋版のバベルの塔の内部構造が展示されていたり、グッズが充実していたり、図録が安かったりエンタメしていたような気がする。序盤にあった宗教画の三幅対を見てベーコンの作品を思い出したり(ポロロッカ逆流現象)しながら見るのをやめて歩くのに専念したり、話したり、いまみたいに建築やってたころのこととか思い出したり、そういえば高校生のとき、ってだんだん記憶が混濁してきて、地元にいたり東京にいたりインターネットにいたりした瞬間のどうも言い切れない居心地の悪さというかモーダルな感触があって、それはコミュニケーションのなかの小さい不和感というか不穏さのあらわれであって、「ここではないどこか」へ向かおうとするような気色の悪い精液のにおいのする思考を撒き散らしていて、そこに加わるような酒、酒であって、泥酔して路面に寝ているにんげんに対して祈りを捧げるような陳腐な罪滅ぼしをはじめだした俺は、おそらくは呪いをかけながら、かけられながら存在するわけであって、それは空間についての呪いでしかないのだけど、空間はカントが言っていたようにアプリオリなもので、たとえば近隣のにんげんが消失したときに感じるあの半身の喪失のような感情は、おそらくはまだわれわれが不死であると思いこむがゆえのアポステオリとアプリオリな空間の混同であって、なぜなら酒で生じたにんげんというのは酒によって消えていくわけであって、東京によって生じたにんげんは東京によって消えていくわけであって、サットヴァ、ラジャス、タマスのトリグナが暴れまわることで構成された俺というこの照明や明滅というのは常に肉体から空間から離れようとする痛みとそれを押しとどめようとするふたつの動きの拮抗によって絶えず存在と非存在の合間を縫っているに過ぎなくて、接続詞が向かうのは述語ではなくただ向こうに過ぎなくて、「男がいて、彼はAからBに移動する」というそれだけを書くためにあることの建築物が、ひどく耐えきれなくありながら憧憬を挟まずにはいられなくて、また憧憬には常に精液の色があり、丹田のあたりに染みてくる思春期によって若返りながら老いていくその苦しみに対してもはやこのような乱雑は慰みにもならなくて、しかしながら記憶を胚胎する建築であることのわれわれは、それを空間化することでしか逃れられず、夜ごとに訪れるこの空間化された時間を慰撫しその輪郭を辿っていくことしかできないまま、こどもらしいあこがれを投影していくことの惨めへ赴く。

日記:N・S・ハルシャ展の感想(六本木がこわい)

六本木はいつ来ても慣れない。と言っても数えられるほどにしか来たことはないが、街そのものが持っている性質がすでにこわい。端的に言うと「いっぱしの都市生活者とじぶんは思い込んでいたがやっぱりおまえ田舎者じゃん」、というのを街全体に突きつけられている。上野だの池袋だのはなんだか地元に帰って会った先輩がネズミ講やってた、くらいのファンシーなニュアンスが建物にもあっていいんだけど、六本木はとことんこわい。エスカレーターで、露出の多い女の人を見るたびに都市が具現化しているとおもう。あそこには都市が住んでいる。

地霊と呼べばいいか、あれらが住んでいるらしい原宿赤坂六本木あたりのラインがいまだにこわい。じぶんに確信が存在している人間にあこがれているいっぽうでその人間が別の生き物すぎてこわくなる瞬間のようだ、それは。確信というのは日常にありふれている狂気の一端であって、たとえば長さ数十メートルの箱のなかに詰められることを毎日繰り返すのはその先にある幻想について確信を抱けているから。数百年前まで海だった場所がなぜ足場を手にしたかといえば、えらいひとに取り憑いていた都市たちが産めよ増やせよとささやき続けていたから。そういえば、薄ら寒さを感じるくらいに清潔な町並みというのはいつも埋立地で、人工的な地面なんかを見ていると雑多なアスファルトに帰りたくなる感覚というのがあって。確信はなめらかな表面なので、手を触れていても触っている感じがしない。いつの間にかなめらかになっている。コントラストがきつすぎるんだろう。取り巻いているすべてが都市的なふるまいを強要しているように感じる。だがホッピーを飲ませてくれ、角ハイやレッドブルで俺を囲繞しないでくれ。「角ハイボールがお好きでしょ」よく見ればカツアゲみたいなコピーだ。

 

生まれた日でしたので、森ビルのマーベル展をひとしきり見て、時間も余っていたので、N・S・ハルシャ(以下ハルシャ)の展示も見ることにしました。日記をはじめてから生まれたころの話をするのはもう三回目ばかりになりますが季節はやっぱり焦ることが多くて、風はやたらに吹いていたし冷や汗がなぜか止まらなくて、内省的傾向に陥りがちな自身をどうにかちょうどいいように調節しようとしてはみるのだけど、それはじぶんの状態の客観視につながり少々しんどい。

ハルシャ展ではロハスっぽさが全面に押し出されていて、ヴィヴェーカナンダあたりのシカゴ宗教者会議での発言とかを思い出す節がある。西洋vs東洋の。インドの宗教画でよく見る集合を採用しているみたいで、その数が尋常ではないので対峙するとかなり圧倒される。ガンジーの機織り機に着想を得た無数のミシンが互いに糸を絡め合うものがあって、それもビジュアルのインパクトがすごいし、国旗がそれぞれにミシン台に貼られていてコンセプトが直で伝わるのがすごいなーと思った。強度っていうものがきっとあって、音だったりビジュアルだったりの場合単純なでかさっていうのは文字通り大きい効果を与えてくれるんだなーと再確認した。たしかその直前にふとWTCのことを検索していて、ビルから落ちる人間の写真を見て芥川の羅生門の冒頭を思い出したりしていた。むかし参加した講演会で建築士WTCの話をしていて、「ゴマ粒みたいなのがビルの周りにあるんですけど、人だったんですよ」と言っていた。それからずっとこれが接続される。

その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。

個人的に印象に残ったのはタイトルで、邦訳なので実際どういったニュアンスかはわからないけれど次のようなものがある。「恐れの詩学」「煙が上へ、煙が下へ、ぼくはいつもきみを探している」「溶けてゆくウィット」かっこいい。二番目のタイトルがロマンチックでかなり好き。複製ではなくて個々に魂がある前提なので、パンフレットにあるような集合絵は細部まで見ると好き勝手に生きていてよかった。好き勝手に生きていてその生を生として受け止められるのってすごくいいことだとおもいます。それが確信まで届けば宗教も習慣もいらなくなるからもっといいとおもいます。帰ってから、ケーキをもらったり、写真を撮ってもらったり、人間っぽくなった。それからは髪を切ったり酒を飲んだりしている。なめらかになりたい。なめらかな胡麻を目指そう。地下ではなくて天井に落ちていく胡麻になろうとおもいます。ミキサーかけると浮いてくるやつ。
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身体について;俺はなぜ行進ができないのか

 肉と骨はたやすくくずれる。語源的解釈。肉は動物の皮膚に覆われ骨に付着する組織のひときれを描いたものであり、骨は肉の中心に位置し、それが集ることで體(からだ)となる。統合としての身体は、それぞれが別個の機械によって成り立っており、ブリコラージュによって集合した巨大な知覚のための媒介として機能する。器官はそれぞれが好き勝手に動き回っており、スピノザ風の二分論でいえば平行的な対立を伴いながら、身体と精神は永遠に交わることがない。肉と骨はたやすくくずれる。オシリス神が無数に分解され、オルフェウスが解体され、ランボーが右脚を切断されたがごとくに、身体は常にその外へと伴いを見せる。身体自身への外へ向かう身体は常にその不可能性に見舞われる。頼りがいのあるはずの死は精神の敗北を意味するだけで、身体は敗北しない。というのは、たましいはもはや存在に敗北した存在者によって身罷られたある幼い赤ん坊に過ぎない。しわくちゃのオイディプス王を断頭するレテの川は人から知覚を奪い去る。

 

 鈴木敏晴[2013]によれば、エドガードガの作品群に「柔らかな肉を突き破らんばかりの脊柱を見出」したフランシスベーコンの絵画とは「晒された肉の表面であり、それは『ここを去ってあちらへ行く』(中略)」ものであるという*1。たとえば、ベーコンの初の裸体の人物画である《人体による習作》を参照すると、カーテンの向こうへと赴く身体があり、また、《走る犬のための習作》では、速度性によって極度にその身体を歪めた犬の姿が青白く側溝沿いに漂う。ここで描かれている身体たちは、確かにその像をくぐもらせて、現象として、「有機交流電灯のひとつの青い照明として」機能されているように見られる。鈴木[2013]はまた、皮膚によって脊柱を覆ったドガとは対照的に、ベーコンはその皮膚を取り払ったともいう。

  ところで、舞踏の世界ではアイソレーション(分離)と呼ばれる、舞踏におけるあらゆる動作を可能にするための基礎的な技術が存在する。これは要するに身体の指や四肢をはじめとする一部分を独立させ意識的に制御するものだが、いっぽうで、これらの身体への意識的なアプローチは、われわれの身体がつくづく偶発的に作用してきたことを知らしめる。鈴木創士[2014]は次のようにいう。

 なぜなのかはわからないが、身体の「宿命的な」身振りというものがある。それは身振りであることをすでにやめてしまっている。身振りというよりも、それは行動の、動作記憶の規範であり、空間というかむしろ空虚のなかで、時間と連動した身体の一種の悪癖のようなものだ。それはほとんど物質の様相の一部をなしはじめた思考の始まりである。脳の右側から入った言葉の粒子または音響は、左側に合図を送り、システムを装う言語を私に強要する。なんという疲労だろう。

www.gendaishicho.co.jp

 

 「宿命的な身振り」、それは「どうやったら百本の足をうごかせるの?」と聞かれるまでの寓話のムカデの動きに似ている。ムカデはその瞬間に、いままで「自然に」行われてきたはずの身体統御の方法を忘れて死んでしまう。時間はわたしたちの中をひっかき回して勝手に身体を連動させている。それを自覚するためにはまず身体自身に近付かなければならない。間隙の不規則な痛みやそれこそ「疲労」によって、われわれの身体ははじめて身体へ近付きを見せるに至る。いかに自動的に身体が動いていたかを顕著に知ることができるのは、それがほころびを見せること、意識の機能不全による身体の強さを思い知る瞬間であるとわたしは感じる。糞の詰まった肉袋であるわたし、存在するために糞をしなければならないわたしは、そのときに「この身体」が、自らの所有からすでに遠く離れていることに気づかされる。

(個人的な経験でいえば、いまだにわたしはエイトビートを叩くことができません。あんなの、手足がぐちゃぐちゃになってほぐれて消えていくみたいで、ひっちゃかめっちゃかしたわたしの肉体は風にまぎれて消えた一個のほこりのよう。そう、高校生のときに体育祭で行進をする機会があって、拍を合わせたように作用する足は横とはどうにも合わなくて、遅延していると思えば早すぎるし、ちょうどと思えば遅すぎます。そのときは見栄えが悪いからと行進の内側にわたしは配置されたのですが、これにはじまったことではなくて、太鼓の達人は「ふつう」でもうだめ。ベースラインはいつも早すぎるし手数が多すぎる、ギターのカッティングは常に十六分。そういえばこれの中盤までを書いていたのはたしか二ヶ月くらい前だったと思いますが、 今回日記にすると決めてから酩酊についてのある種必然的な文章の流れがじぶんのなかで存在していて、それは根本的にはじぶんが抱いていた重力という観念についてです。

身体統御の不可能なある状態が訪れたとき、それまでじぶんのものだったはずの身体が「わたし」から離れた異物として受け止められる状況が発生します。このとき、わたしの身体は「肉体」へと移行します。いわば死体的な身体です。この、わたしの肉体を覆っているのは、事物としての肉や皮ではなくてもはや世界という外部そのものがもともと有していた重力です。たとえば、筋繊維をはじめとした器官をわたしはこうして自由に動かすことで生活を営んでいると一見考えがちですが、この前提には外部の持っている重力というものがあって、重力を反発するための器官の正常なはたらきがあってはじめて成り立っています。あるコードに基づいて、何キロカロリーの消費を行い分解と電気信号の伝達が行われることではじめて、重力は「なかったこと」にされるのですが、それは幻想であり、実際には存在していた外部が運動によってかすみ消えているだけにほかなりません。ベーコンの絵から着想を得たのは、身体から突き出そうとしている脊柱、これがいわば外部へ逃れようとする外部自身のはたらきだと感じたからです。肉体は牢獄である、という古い比喩に立ち返るなら、精神と肉体という二項対立が生じるのは言うまでもありませんが、それは違っていて、実際には外部の重力というただひとつと、それを制御するための外部自身の重力というもうひとつが拮抗しているというだけで、それらは同種の重力であって差異がありません。重力とは外部自身の外部による外圧であり、同時にその自重にしたがって随意運動させる機構です。そこに精神はいないし、出る幕もない。ただ外部があって、時折その重さを外部が知るというだけ。舌っ足らずだけど。)

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*1:鈴木敏晴「触覚と粒子でできている:ドガ・ベーコン・そして土方」『フランシス・ベーコン展』東京国立近代美術館

小説:皮膚のイ、縦書きの雨

 犬の表面がぬめぬめしている。驟雨だった。舌打ちと歯ぎしりを入れかえながら男が雨戸を閉める。最初は弱拍からはじめて、ゆるやかに大きくなる。トタン小屋のなかで火をつけようとするも木材は湿っててんでつかない。舌打ちにクレッシェンドが混ざる。穴からもれた雨音は規則正しすぎる十六分音符だ。

 犬は終わりかけていた。雨に打たれすぎたのが悪かった。はじめのうちは正三角形だったのにもう四角形である。このままいけば五角形六角形と増えていった結果、球体になる。球体になった犬ははねるしか能がない。ただよろこぶにまかせる犬の姿を見るのは三度目だった。つぎの犬を逃すともう外には出れなくなる。そのうちにじぶんも丸みを帯びただけの夜になってしまう。犬はころがって、かなしい三半規管で男の苛立ちを感じているが、男は吸い殻を集めて種火にしようとしているさなかだった。若い膚はぱちりとはぜる火が照らすのに合わせ血流を増やしたが、あたたかさを与えるだけで想像力は与えなかった。座り、ぬれた犬を拭くためのタオルを引き出しから取り出そうとすると、右手はもう終わっていて、中心にはかつて存在していていた手のひらの残骸らしい穴が残っているだけだった。

 すり減った奥歯で部屋の六隅にある鉄筋を噛み締めて、穴にねじ込む。そのつぎには梃子の要領で一番下の箪笥の戸を引いた。角数の増えてしまった箪笥はあきらかに膨張しており、そろそろ八角形になる。「ゴムまりのような乳房」男は発語する。引き出しには、薄いピンクのタオルがひとつだけあった。かつての持ち主だったろうものは、いまではスーパーボール状の肌色で相模湾をたゆたっているだろう。

 犬は、光沢を増す脚を持ち上げながらノミ掻きをしようとしている。左手でタオルを持ったまま犬に向かうと、犬はやわらかすぎて尻尾のほうまで曲がった脚をくわえて鎮座した。
「ごめんなさい、どうしてもかゆくて」
「いいさ。それより外の様子はどうだった」ぬめりをこそげ落としながら男が返す。語気は柔和でも、怒りを沈めた様子なのが、犬の肌をこする左手の強さでわかった。
「橋をわたったところにある終わった詩が、まだ高速で回転しているの。朝になればやむとおもうけど、止めに行った鈴木さんが丸くなっちゃったわ」
「鈴木さんがか。むかしはあんなに尖っていたのに」
 かつての歌舞伎町――現在の「ひまわりゆうえんち」――で、鈴木さんは大立ち回りを繰り広げていた。関東連合のOBもいたというのに、ビンゴ大会で鈴木さんはひとりでモンサンミッシェルの八十年物を飲み干したしたのだ。
「先端がいちばんうまいんだよ」コルクをバリバリと音を立てながら食べていたあの屈託のない猿のような笑みが浮かぶ。いまのように家にピンクのタオルしかなく、吸い殻を集めてわずかな火種にしているなどといえば、あのときの面々はだれしもが金をせびるための口実だと笑い飛ばすだろう。
「橋はどうなってるんだ」
「橋、終わっているわ」犬がきもちよさそうにのびをすると、そのまま回転して胴からねじれてかまちの下にころんだ。男はタオルを畳に放り投げる。ぬめりを吸ってふくらんだタオルは部屋のなかにあるほかの球体同様にぎゅううっ、と断末魔めいたラの音を立て、毛羽立ったその表面はしだいになめらかになっていく。やがてピンク色の光沢を放つ球体になった。あれは最後のタオルだが、犬はまだぬれている。
「わたしもそろそろだめね」
「そんなことないさ」
 男の口から出るのはそっけない慰めばかりだったが、犬もそのことをはじめから知っていた。こんな状況にならなければ、男だって気の利いた台詞のひとつやふたつを吐くはずだった。ねじれる犬を横目に、男はどうやって明日を過ごすかを考えていた。最悪の場合、より最悪の場合、最悪に最悪の場合、と、思いつく限りのいまよりも最悪な場合を考えるのが、男のせめてものなぐさみであり、解決策だった。
「うみがみたかったな」

 犬がきしみながらいう。火がにわかに消えてくる。この犬が何度めかはわからないが、おそらくもう帰ってくることはないだろう。男の腹の中にあった苛立ちが、別の感情に結実していくのがわかった。
「いこう」唐突に男が立ち上がる。開きっぱなしの箪笥の引き出しを左手で持つと、そのまま一気に引っ張り出す。右手に刺さった鉄筋で、引き出しを突き刺し、即席の傘を作った。犬は困惑しながらも、ねじれるのに身を任せてている。

 

 へしゃげて八角形になったトタン小屋を出ると、ぎゅいいいと「傘」が悲鳴を上げているのが聞こえた。やわらかくてなめらかになってしまった犬を小脇にかかえながら、落とさないようにしながら、男は道いっぱいに広がるいくつかの肌色の球体に触れないように歩いていた。肌色のひとつに、「す」が通り過ぎる。「す」は肌色の角を取り去り、光沢を増した。

 ことばが世界を取り分けるものであるとき、それは現象の角を切り取るものとして動いていくだろう。そしてまた、主体は決してわれわれではない。前の犬はいつかそんなことをいったことがある。その犬は利口だったが、しかしじぶんが外に出ることに対しては利口なあまり保守的だった。もし、あたりいっぺんを丸くするそれが言語だとすれば、おれが発しているところのこれはなんだというのか。男はそういいながら前の犬を叩き出したことを覚えている。

 雨はぼたぼたと引き出しを打つ。トタン小屋のまわりには九角形や十一角形の同様のそれが並び、難民キャンプを想わせた。ことごとく遠くに見える建築物は不規則に丸みを帯びていて、都庁はもうその先端がくっつく手前だ。コクーンタワーは、元からかたちが近いのがよくなかったのだ、もはや完全な球体に近づいている。犬を握り、その内臓と可変的な骨の感触を確かめる。そこにはたしかに空隙があり、それが男を安心させた。完全な球体には空間がなく、さもなくばそれは内部の圧力によって可塑的なものであるからだ。

    外は夜に近いのか昼に近いのかわからなかった。真っ白にふくらんだ空があった。
「いいの」犬がいった。トタン小屋の面々が雨戸のすきまからこちらを観察している視線が感じられた。同じように、男はこんなふうに外を出歩く人々を見ていたことがある。気が狂っているのか、という憐憫と嘲笑混じりの視線だ。いまではじぶんが向けられる側になっている。いうなれば、ほんとうに気が狂っているのかもしれない。だがふしぎと楽だった。隣の家に忍び込み食料を強奪することも、住処を得るために鉄筋を振り下ろすことも、見せしめとして雨のなかに誰かを縛りつけておくこともしなくていいのだ。

 都市はもはや裏返しになっているといえる。球体の接面を相互につなぎ合わせようとする光景は、無性生殖に似ている。たとえば原型をとどめていたはずの東京タワーはものの見事に球体化し、それと同時に引きずられた御成門一帯や増上寺は緑や茶色に悲鳴を上げかがやきながら近づき、分解と再構築をくりかえしながらまだらな玉として完成していった。その表皮には三田線の車両とホームが張り付き、雨が降りしきるにつれて次第にそれは没個性的な白や黒や青のなめらかさとしてのみ映るようになっていった。
「いいさ」男がいった。「傘」は思ったより限界が近く、へしゃげた互いの辺がもうすぐその接合を待ち望んでいるようだった。一歩一歩を進めていくたびに身体が丸い終わりに向かっている。

 犬はじぶんの矮躯から離れようとしているかなしみに対してその焦点をずらさないように、注意深く感情の律動を観察している。ある哲学者は「かなしみそのものをそれがかなしみであるという理由で愛するものやそれゆえ得ようとするものはどこにもいない」といったが、犬に関していえば、それは自らを構成するかなしみ自体に向けられた愛慕であるといってまちがいない。そういった犬の精神の動きに対して、男は鈍感だった。だが、その状況の犬に対して、男はいささか倒錯した安堵を覚えるのだった。

 球体に近づくバラックの群れを通り抜けていくと視界が晴れて、そこには河川敷があり、その脇に巨大な球体がいくつか並んでいる。住宅街だ。木造も、鉄骨も、RCも、のべつくまなく密集した距離が近すぎたせいでいまではよろこびに満ちあふれてひしめいている。犬の体温はだいぶ下がってぬめりも増してきた気がする。コードバン状になめらかに仕上がった犬はどんな動きをするのだろう。
 目の前では終わった詩が高速で回転している。 巻き込まれた鈴木さんは誰もいない陸橋になっていた。誰もいない陸橋とはすなわちそれが観測されることさえ許されない存在であるが、その外延を隔てるべき雨が、男と鈴木さんのあいだに平等に降り注いでいた。詩の輪郭からは金色の汁がでゅるでゅる飛び出し、周囲を表現主義に染め上げていく。終わった詩は 

           き

               ん

                   い

                       ろに崩れ鈴木さんを陸橋化する。

 犬がうめいて、男はある素朴な観想に至った。この世が神の夢であるならば、夢見られるわれわれに夢のすがたはちょうどこんなふうにいびつなのだろう。夢見られるわれわれは神の無意識によって存在のための糞の響きとして象られているのだろう。

 鈴木さんは絶叫する陸橋として肌色の鉄骨をむき出しにしている。好々爺然としていた狒々状の鼻はアーチ状に伸び収縮し、終わった詩は副産物として周囲に五感をばらまきながら拡散されている。帝国がその領土を広げるさまに似ている。きりもみ運動をくりかえして最後の飛翔を遂げている鳥が落下し、陸橋と詩に巻き込まれ、口から記憶をよろめかせながら歴史を量産した。歴史は五本の脚を持った外骨格性の動物で、特有の粘着質で鈴木さんに塗装されたモルタルを吸引しながら節足を丸めていく。 陸橋はもりもりと巻き戻されている。これでは渡って海に行くこともできなかった。急ごしらえの傘もどうやら寿命らしく、頂点を伝って雨のしずくが頭頂に当たるたびに終わっていくのを感じていた。見れば、犬もどうやらいまではとらえどころがなくなっている。それはかつて犬が女であったころの様子に近い。
 記憶の余剰は一度突き放されることででトラウムとなり、新たに反復されることで統合される。その主体が男であるのか、それとも犬の側であるのかは男にはわからなかった。犬にとっては、男こそが呼ばれた記憶であり、男にとっては犬が呼ばれた記憶であるに過ぎない。「後の日の量子的統合」、と前の犬はいっていたが、それは膨大な情報を圧縮することになる。すなわち質量を持つ。夢見る神がわれわれを夢見ているのだとすれば、その夢の終わりとは神の記憶がことごとく処理される瞬間にほかならない。神の似姿であるわれわれは、その魂のかたちを整えるべく生成変化する。閉ざされたモナドへ変化する魂の響きは、神以外の外部をどこにも持つことはない。

 終わりの圧力によって鉄筋はへしゃげ、ぽきりと折れるとみずからのうちに隠遁した。男は、繰り返し蚕や椅子として変わり、だれかの記憶の統合としてあつかわれていた。犬もまた、おそらくは――その主体がなにものかを使役し、みずからの余剰としているのだろう。傘はいまや分解され、引き出しと二本の鉄筋として分解されている。だが、かつて傘であったこの要素たちは、その目的的身振りによってこそ、目的の外へと連れ出される。螺旋状に解釈された目的は、目的自体に対して自己言及的に遡及する。

 犬はいまやよろこびに満ち溢れて、その充実した身体ではすべてが非可塑に完成した。男も同様にじぶんの身体に流れ込んでくるものの存在を知り、身体が巻き戻されていくのを感じた。わずかな共時性のなかで、男と犬は海を幻視した。相模湾だ。そこにはあのピンクのタオルの持ち主であっただろう女も浮かんでいる。養殖されるべき海苔は、海の凪でくろぐろとかたまり、帆船は三日月状に縮みあがっている。それらがなにものかの見ている夢であることをかれらは知っている。雨はひとしく降りしきり、それはかれら自身の夢の胚胎を予感させる。

 ドンブラコと音を立て、夢は夢見られるべく丸まる。

香水がほしいという話

案外、乏しい記憶のほうが身体のなかに色濃く残るということがある。香りや響きは、それがかたちを残さないという一方でひどく心もとないものでありながら、じぶんのなかで占める記憶の割合はそれらのほうがずっと比重というか、重さが。重さが。重さが違うのは彼らの質量の問題ではなくて、みずからの意識の問題に過ぎないと言ってしまえばそう。たとえば焦がした鍋の凄まじい響きはディミニッシュよりもはるかに不和を伴って訪れる。夏、と呼ばれたときには、日から来る痛みや閃光よりもむしろ、夜のひっそりとした山の露に濡れて緑くさいにおいのほうが強い。嗅覚が発達しているというよりは視覚が衰えているというほうがふさわしい。十メートル先の人間が知人である判別が定かではないまま、そのまま近づいていくと、ああ、知人でした、よかった。というような感慨で、あいさつ。あいさつ。その顔の像をきちんとじぶんのなかで捉えていくことができなくなるのは、視力の低下がもたらすひとつの例になる。

人称がぼやけていくから、別に名前をつけなくても楽で、でもそれはいちばん危なっかしいできごとのうちのひとつでもある。名前をつけるのは大事。名前をつけないとその像はどれもぜんぶ同じになってしまう。名前をつけても同じだけど。ただ、名前がフレキシブルに展開して、手塚治虫のマンガみたいに、同じような人間が必然を伴ってあらわれるさまというのは、ここ数年顕著な傾向でもある。映画を見るときにだけ眼鏡をかけるようにしているので、本を読むときにだけ眼鏡をかけるようにしているので、外した途端に人間ぜんぶモネの抽象画かよ、というふうになる。主体のみにくさを知りたくないというあさはかな意識が紛れ込んでいるのがわかっても、じぶんのにきびとか見たくないし、「ぷつッと、ひとつ小豆粒に似た吹出物が、左の乳房の下に見つかり、よく見ると、その吹出物のまわりにも、ぱらぱら小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点して(中略)憎い気がして、お風呂で、お乳の下をタオルできゅっきゅっと皮のすりむけるほど、こすりました。それが、いけなかったようで」すし。見えすぎるのはよくないですし*1。視覚は最悪の場合死ぬだけで済むから楽(目玉を焼かれることは太陽に祝福されることでもある)、それは肉体の死だから、魂の死じゃないから、「名前や響きは煙に過ぎない」とも言われている、ほんとうのものは名前や響きに過ぎない。響きに名前を付けることのおぞましさというのはずっと長い音楽についてのみんなの話でわかっているし、人間の視覚というのは眼球がレンズ状であるその前提ですでに歪められているから神を眼差すことができない。聴覚は耳介で集められて音波は外耳道を伝い音波を増幅させ鼓膜を震わすので、ムキムキの神があらわれることになる。「生音の響きがよくないとアンプも鳴らないから」じゃないんだよ、ローリング・ストーンズのTシャツを着るな。ローリング・ストーンズのTシャツを着るな。泣かすぞ。うすいにおいを伴って、記憶と名付けられる響きが夜を越えて明け方のほうまで進行していくこと。光景は野辺送りにそっくりで、すこし歪んだクリーントーンはそれぞれの輪郭をぼやけさせていて、フレットノイズが気になる。午前四時よりもうちょっとあと。鼻だけが墓標の合間から真っ先に伸びている。線香みたいに。

起き抜けに着たジャケットに弟の香水のにおいが染み付いていたので、じぶんの香水がほしいと思いました。冬です。おれもにおいで人間を倒したい。ローリング・ストーンズのTシャツ着てる四十代のバンドマンを倒したい。冬です。記憶で人間を殴りたい。

*1:日記で太宰を引用するような人間に零落してしまった。全国の青年の怨霊がおれの肩の上に乗っかっていて(『屍鬼二十五話』によればヴェータールはトリヴィクラマセーナにしがみつき物語を語る)、そいつらは夜毎に快楽原則と最大多数の最大幸福を説いている。神学的に人間の自由意志が認められていないということを反駁すると、そいつらは神の不在について語り始めるのでおれはイサクルリアにおける言語発生論を引っ張り出す。しかし、たのしいことはしたいし、わるいこともしたいんだけど、したいのにもかかわらず、童貞の心、  閲覧され/ 雨が降ってい / さき/ よりの 四天

7+5=12

起きて、灰皿の中身が他人のたばこでいっぱいになっていて、昼過ぎで、西日が近づいて、電気代の催促状がドアの下に挟まれていて、車の音が聞こえて、膝や肘にからんだ痛みがにわかにたちのぼって、確かめる。伸びをしようとすると押し入れのあいだにからだが挟まって、ちょうどじぶんが押し入れにいることをおもって、夜ともなく昼ともなくなっていた、とうに正体を逸していた。永遠に人間どもは起きなく、コールドスリープを反復する死体の山々にかしずかれながら、考える、小学生、遠足に行ったら最後まで寝れなくて何人もの寝顔を眺めるほかに帰り道を待つ手段はなく、ものを言わない彼ら彼女らはそれでも眠りのなかで起きるのを待っている、したがって音を出すことも、動くことさえ許さないような権力を彼らの肉体は有している、やわい殯の感触を身動きの取れなさから来る不快に託しながら、同様にじぶんの肉体も彼らをなぞらえざるを得ない。起こせばいいというものでもない。呪いに似ている。哲学者は他者が地獄であると言ったが、地獄は生ぬるくて昨日の酒のきしみだけを阿頼耶識に蓄えていて、あとは別段気にするようなこともない。それぞれがふんわりとした地獄をじぶんの魂のうちにサルベージしている。問題は、緩慢に近づいてくるそれらをどういうふうに少しずつ遠ざけていくか、天国がひどく魅力的ではないのがわかっているから人は常に重力に支配されていて、死者が横たわる以外の手段を持たないことからもそれはわかる。地獄にはジミヘンもいるしカートコバーンもジムモリソンもジャコ・パストリアスもチャーリーパーカーもリバーフェニックスもいる。鬼とだって戦える。けれど二足歩行がたとえば横たわり地層になる以外の手段を持たなかった人間のあさましい抵抗だとすれば、yとして無限に引き伸ばされたこの肉体はグレコの絵のように目をしょぼしょぼさせている。この部屋はx軸とy軸にながらく支配されている。

 

昼餉と夕餉はカレーにパンを浸したもの。喫煙を何度か繰り返すうちに、喫煙が持っている本来的な性質は時間を遅延させることで、それは十六分音符を八分音符に変換してしまうような行為だと気づいた。