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小説:皮膚のイ、縦書きの雨

 犬の表面がぬめぬめしている。驟雨だった。舌打ちと歯ぎしりを入れかえながら男が雨戸を閉める。最初は弱拍からはじめて、ゆるやかに大きくなる。トタン小屋のなかで火をつけようとするも木材は湿っててんでつかない。舌打ちにクレッシェンドが混ざる。穴からもれた雨音は規則正しすぎる十六分音符だ。

 犬は終わりかけていた。雨に打たれすぎたのが悪かった。はじめのうちは正三角形だったのにもう四角形である。このままいけば五角形六角形と増えていった結果、球体になる。球体になった犬ははねるしか能がない。ただよろこぶにまかせる犬の姿を見るのは三度目だった。つぎの犬を逃すともう外には出れなくなる。そのうちにじぶんも丸みを帯びただけの夜になってしまう。犬はころがって、かなしい三半規管で男の苛立ちを感じているが、男は吸い殻を集めて種火にしようとしているさなかだった。若い膚はぱちりとはぜる火が照らすのに合わせ血流を増やしたが、あたたかさを与えるだけで想像力は与えなかった。座り、ぬれた犬を拭くためのタオルを引き出しから取り出そうとすると、右手はもう終わっていて、中心にはかつて存在していていた手のひらの残骸らしい穴が残っているだけだった。

 すり減った奥歯で部屋の六隅にある鉄筋を噛み締めて、穴にねじ込む。そのつぎには梃子の要領で一番下の箪笥の戸を引いた。角数の増えてしまった箪笥はあきらかに膨張しており、そろそろ八角形になる。「ゴムまりのような乳房」男は発語する。引き出しには、薄いピンクのタオルがひとつだけあった。かつての持ち主だったろうものは、いまではスーパーボール状の肌色で相模湾をたゆたっているだろう。

 犬は、光沢を増す脚を持ち上げながらノミ掻きをしようとしている。左手でタオルを持ったまま犬に向かうと、犬はやわらかすぎて尻尾のほうまで曲がった脚をくわえて鎮座した。
「ごめんなさい、どうしてもかゆくて」
「いいさ。それより外の様子はどうだった」ぬめりをこそげ落としながら男が返す。語気は柔和でも、怒りを沈めた様子なのが、犬の肌をこする左手の強さでわかった。
「橋をわたったところにある終わった詩が、まだ高速で回転しているの。朝になればやむとおもうけど、止めに行った鈴木さんが丸くなっちゃったわ」
「鈴木さんがか。むかしはあんなに尖っていたのに」
 かつての歌舞伎町――現在の「ひまわりゆうえんち」――で、鈴木さんは大立ち回りを繰り広げていた。関東連合のOBもいたというのに、ビンゴ大会で鈴木さんはひとりでモンサンミッシェルの八十年物を飲み干したしたのだ。
「先端がいちばんうまいんだよ」コルクをバリバリと音を立てながら食べていたあの屈託のない猿のような笑みが浮かぶ。いまのように家にピンクのタオルしかなく、吸い殻を集めてわずかな火種にしているなどといえば、あのときの面々はだれしもが金をせびるための口実だと笑い飛ばすだろう。
「橋はどうなってるんだ」
「橋、終わっているわ」犬がきもちよさそうにのびをすると、そのまま回転して胴からねじれてかまちの下にころんだ。男はタオルを畳に放り投げる。ぬめりを吸ってふくらんだタオルは部屋のなかにあるほかの球体同様にぎゅううっ、と断末魔めいたラの音を立て、毛羽立ったその表面はしだいになめらかになっていく。やがてピンク色の光沢を放つ球体になった。あれは最後のタオルだが、犬はまだぬれている。
「わたしもそろそろだめね」
「そんなことないさ」
 男の口から出るのはそっけない慰めばかりだったが、犬もそのことをはじめから知っていた。こんな状況にならなければ、男だって気の利いた台詞のひとつやふたつを吐くはずだった。ねじれる犬を横目に、男はどうやって明日を過ごすかを考えていた。最悪の場合、より最悪の場合、最悪に最悪の場合、と、思いつく限りのいまよりも最悪な場合を考えるのが、男のせめてものなぐさみであり、解決策だった。
「うみがみたかったな」

 犬がきしみながらいう。火がにわかに消えてくる。この犬が何度めかはわからないが、おそらくもう帰ってくることはないだろう。男の腹の中にあった苛立ちが、別の感情に結実していくのがわかった。
「いこう」唐突に男が立ち上がる。開きっぱなしの箪笥の引き出しを左手で持つと、そのまま一気に引っ張り出す。右手に刺さった鉄筋で、引き出しを突き刺し、即席の傘を作った。犬は困惑しながらも、ねじれるのに身を任せてている。

 

 へしゃげて八角形になったトタン小屋を出ると、ぎゅいいいと「傘」が悲鳴を上げているのが聞こえた。やわらかくてなめらかになってしまった犬を小脇にかかえながら、落とさないようにしながら、男は道いっぱいに広がるいくつかの肌色の球体に触れないように歩いていた。肌色のひとつに、「す」が通り過ぎる。「す」は肌色の角を取り去り、光沢を増した。

 ことばが世界を取り分けるものであるとき、それは現象の角を切り取るものとして動いていくだろう。そしてまた、主体は決してわれわれではない。前の犬はいつかそんなことをいったことがある。その犬は利口だったが、しかしじぶんが外に出ることに対しては利口なあまり保守的だった。もし、あたりいっぺんを丸くするそれが言語だとすれば、おれが発しているところのこれはなんだというのか。男はそういいながら前の犬を叩き出したことを覚えている。

 雨はぼたぼたと引き出しを打つ。トタン小屋のまわりには九角形や十一角形の同様のそれが並び、難民キャンプを想わせた。ことごとく遠くに見える建築物は不規則に丸みを帯びていて、都庁はもうその先端がくっつく手前だ。コクーンタワーは、元からかたちが近いのがよくなかったのだ、もはや完全な球体に近づいている。犬を握り、その内臓と可変的な骨の感触を確かめる。そこにはたしかに空隙があり、それが男を安心させた。完全な球体には空間がなく、さもなくばそれは内部の圧力によって可塑的なものであるからだ。

    外は夜に近いのか昼に近いのかわからなかった。真っ白にふくらんだ空があった。
「いいの」犬がいった。トタン小屋の面々が雨戸のすきまからこちらを観察している視線が感じられた。同じように、男はこんなふうに外を出歩く人々を見ていたことがある。気が狂っているのか、という憐憫と嘲笑混じりの視線だ。いまではじぶんが向けられる側になっている。いうなれば、ほんとうに気が狂っているのかもしれない。だがふしぎと楽だった。隣の家に忍び込み食料を強奪することも、住処を得るために鉄筋を振り下ろすことも、見せしめとして雨のなかに誰かを縛りつけておくこともしなくていいのだ。

 都市はもはや裏返しになっているといえる。球体の接面を相互につなぎ合わせようとする光景は、無性生殖に似ている。たとえば原型をとどめていたはずの東京タワーはものの見事に球体化し、それと同時に引きずられた御成門一帯や増上寺は緑や茶色に悲鳴を上げかがやきながら近づき、分解と再構築をくりかえしながらまだらな玉として完成していった。その表皮には三田線の車両とホームが張り付き、雨が降りしきるにつれて次第にそれは没個性的な白や黒や青のなめらかさとしてのみ映るようになっていった。
「いいさ」男がいった。「傘」は思ったより限界が近く、へしゃげた互いの辺がもうすぐその接合を待ち望んでいるようだった。一歩一歩を進めていくたびに身体が丸い終わりに向かっている。

 犬はじぶんの矮躯から離れようとしているかなしみに対してその焦点をずらさないように、注意深く感情の律動を観察している。ある哲学者は「かなしみそのものをそれがかなしみであるという理由で愛するものやそれゆえ得ようとするものはどこにもいない」といったが、犬に関していえば、それは自らを構成するかなしみ自体に向けられた愛慕であるといってまちがいない。そういった犬の精神の動きに対して、男は鈍感だった。だが、その状況の犬に対して、男はいささか倒錯した安堵を覚えるのだった。

 球体に近づくバラックの群れを通り抜けていくと視界が晴れて、そこには河川敷があり、その脇に巨大な球体がいくつか並んでいる。住宅街だ。木造も、鉄骨も、RCも、のべつくまなく密集した距離が近すぎたせいでいまではよろこびに満ちあふれてひしめいている。犬の体温はだいぶ下がってぬめりも増してきた気がする。コードバン状になめらかに仕上がった犬はどんな動きをするのだろう。
 目の前では終わった詩が高速で回転している。 巻き込まれた鈴木さんは誰もいない陸橋になっていた。誰もいない陸橋とはすなわちそれが観測されることさえ許されない存在であるが、その外延を隔てるべき雨が、男と鈴木さんのあいだに平等に降り注いでいた。詩の輪郭からは金色の汁がでゅるでゅる飛び出し、周囲を表現主義に染め上げていく。終わった詩は 

           き

               ん

                   い

                       ろに崩れ鈴木さんを陸橋化する。

 犬がうめいて、男はある素朴な観想に至った。この世が神の夢であるならば、夢見られるわれわれに夢のすがたはちょうどこんなふうにいびつなのだろう。夢見られるわれわれは神の無意識によって存在のための糞の響きとして象られているのだろう。

 鈴木さんは絶叫する陸橋として肌色の鉄骨をむき出しにしている。好々爺然としていた狒々状の鼻はアーチ状に伸び収縮し、終わった詩は副産物として周囲に五感をばらまきながら拡散されている。帝国がその領土を広げるさまに似ている。きりもみ運動をくりかえして最後の飛翔を遂げている鳥が落下し、陸橋と詩に巻き込まれ、口から記憶をよろめかせながら歴史を量産した。歴史は五本の脚を持った外骨格性の動物で、特有の粘着質で鈴木さんに塗装されたモルタルを吸引しながら節足を丸めていく。 陸橋はもりもりと巻き戻されている。これでは渡って海に行くこともできなかった。急ごしらえの傘もどうやら寿命らしく、頂点を伝って雨のしずくが頭頂に当たるたびに終わっていくのを感じていた。見れば、犬もどうやらいまではとらえどころがなくなっている。それはかつて犬が女であったころの様子に近い。
 記憶の余剰は一度突き放されることででトラウムとなり、新たに反復されることで統合される。その主体が男であるのか、それとも犬の側であるのかは男にはわからなかった。犬にとっては、男こそが呼ばれた記憶であり、男にとっては犬が呼ばれた記憶であるに過ぎない。「後の日の量子的統合」、と前の犬はいっていたが、それは膨大な情報を圧縮することになる。すなわち質量を持つ。夢見る神がわれわれを夢見ているのだとすれば、その夢の終わりとは神の記憶がことごとく処理される瞬間にほかならない。神の似姿であるわれわれは、その魂のかたちを整えるべく生成変化する。閉ざされたモナドへ変化する魂の響きは、神以外の外部をどこにも持つことはない。

 終わりの圧力によって鉄筋はへしゃげ、ぽきりと折れるとみずからのうちに隠遁した。男は、繰り返し蚕や椅子として変わり、だれかの記憶の統合としてあつかわれていた。犬もまた、おそらくは――その主体がなにものかを使役し、みずからの余剰としているのだろう。傘はいまや分解され、引き出しと二本の鉄筋として分解されている。だが、かつて傘であったこの要素たちは、その目的的身振りによってこそ、目的の外へと連れ出される。螺旋状に解釈された目的は、目的自体に対して自己言及的に遡及する。

 犬はいまやよろこびに満ち溢れて、その充実した身体ではすべてが非可塑に完成した。男も同様にじぶんの身体に流れ込んでくるものの存在を知り、身体が巻き戻されていくのを感じた。わずかな共時性のなかで、男と犬は海を幻視した。相模湾だ。そこにはあのピンクのタオルの持ち主であっただろう女も浮かんでいる。養殖されるべき海苔は、海の凪でくろぐろとかたまり、帆船は三日月状に縮みあがっている。それらがなにものかの見ている夢であることをかれらは知っている。雨はひとしく降りしきり、それはかれら自身の夢の胚胎を予感させる。

 ドンブラコと音を立て、夢は夢見られるべく丸まる。

香水がほしいという話

案外、乏しい記憶のほうが身体のなかに色濃く残るということがある。香りや響きは、それがかたちを残さないという一方でひどく心もとないものでありながら、じぶんのなかで占める記憶の割合はそれらのほうがずっと比重というか、重さが。重さが。重さが違うのは彼らの質量の問題ではなくて、みずからの意識の問題に過ぎないと言ってしまえばそう。たとえば焦がした鍋の凄まじい響きはディミニッシュよりもはるかに不和を伴って訪れる。夏、と呼ばれたときには、日から来る痛みや閃光よりもむしろ、夜のひっそりとした山の露に濡れて緑くさいにおいのほうが強い。嗅覚が発達しているというよりは視覚が衰えているというほうがふさわしい。十メートル先の人間が知人である判別が定かではないまま、そのまま近づいていくと、ああ、知人でした、よかった。というような感慨で、あいさつ。あいさつ。その顔の像をきちんとじぶんのなかで捉えていくことができなくなるのは、視力の低下がもたらすひとつの例になる。

人称がぼやけていくから、別に名前をつけなくても楽で、でもそれはいちばん危なっかしいできごとのうちのひとつでもある。名前をつけるのは大事。名前をつけないとその像はどれもぜんぶ同じになってしまう。名前をつけても同じだけど。ただ、名前がフレキシブルに展開して、手塚治虫のマンガみたいに、同じような人間が必然を伴ってあらわれるさまというのは、ここ数年顕著な傾向でもある。映画を見るときにだけ眼鏡をかけるようにしているので、本を読むときにだけ眼鏡をかけるようにしているので、外した途端に人間ぜんぶモネの抽象画かよ、というふうになる。主体のみにくさを知りたくないというあさはかな意識が紛れ込んでいるのがわかっても、じぶんのにきびとか見たくないし、「ぷつッと、ひとつ小豆粒に似た吹出物が、左の乳房の下に見つかり、よく見ると、その吹出物のまわりにも、ぱらぱら小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点して(中略)憎い気がして、お風呂で、お乳の下をタオルできゅっきゅっと皮のすりむけるほど、こすりました。それが、いけなかったようで」すし。見えすぎるのはよくないですし*1。視覚は最悪の場合死ぬだけで済むから楽(目玉を焼かれることは太陽に祝福されることでもある)、それは肉体の死だから、魂の死じゃないから、「名前や響きは煙に過ぎない」とも言われている、ほんとうのものは名前や響きに過ぎない。響きに名前を付けることのおぞましさというのはずっと長い音楽についてのみんなの話でわかっているし、人間の視覚というのは眼球がレンズ状であるその前提ですでに歪められているから神を眼差すことができない。聴覚は耳介で集められて音波は外耳道を伝い音波を増幅させ鼓膜を震わすので、ムキムキの神があらわれることになる。「生音の響きがよくないとアンプも鳴らないから」じゃないんだよ、ローリング・ストーンズのTシャツを着るな。ローリング・ストーンズのTシャツを着るな。泣かすぞ。うすいにおいを伴って、記憶と名付けられる響きが夜を越えて明け方のほうまで進行していくこと。光景は野辺送りにそっくりで、すこし歪んだクリーントーンはそれぞれの輪郭をぼやけさせていて、フレットノイズが気になる。午前四時よりもうちょっとあと。鼻だけが墓標の合間から真っ先に伸びている。線香みたいに。

起き抜けに着たジャケットに弟の香水のにおいが染み付いていたので、じぶんの香水がほしいと思いました。冬です。おれもにおいで人間を倒したい。ローリング・ストーンズのTシャツ着てる四十代のバンドマンを倒したい。冬です。記憶で人間を殴りたい。

*1:日記で太宰を引用するような人間に零落してしまった。全国の青年の怨霊がおれの肩の上に乗っかっていて(『屍鬼二十五話』によればヴェータールはトリヴィクラマセーナにしがみつき物語を語る)、そいつらは夜毎に快楽原則と最大多数の最大幸福を説いている。神学的に人間の自由意志が認められていないということを反駁すると、そいつらは神の不在について語り始めるのでおれはイサクルリアにおける言語発生論を引っ張り出す。しかし、たのしいことはしたいし、わるいこともしたいんだけど、したいのにもかかわらず、童貞の心、  閲覧され/ 雨が降ってい / さき/ よりの 四天

7+5=12

起きて、灰皿の中身が他人のたばこでいっぱいになっていて、昼過ぎで、西日が近づいて、電気代の催促状がドアの下に挟まれていて、車の音が聞こえて、膝や肘にからんだ痛みがにわかにたちのぼって、確かめる。伸びをしようとすると押し入れのあいだにからだが挟まって、ちょうどじぶんが押し入れにいることをおもって、夜ともなく昼ともなくなっていた、とうに正体を逸していた。永遠に人間どもは起きなく、コールドスリープを反復する死体の山々にかしずかれながら、考える、小学生、遠足に行ったら最後まで寝れなくて何人もの寝顔を眺めるほかに帰り道を待つ手段はなく、ものを言わない彼ら彼女らはそれでも眠りのなかで起きるのを待っている、したがって音を出すことも、動くことさえ許さないような権力を彼らの肉体は有している、やわい殯の感触を身動きの取れなさから来る不快に託しながら、同様にじぶんの肉体も彼らをなぞらえざるを得ない。起こせばいいというものでもない。呪いに似ている。哲学者は他者が地獄であると言ったが、地獄は生ぬるくて昨日の酒のきしみだけを阿頼耶識に蓄えていて、あとは別段気にするようなこともない。それぞれがふんわりとした地獄をじぶんの魂のうちにサルベージしている。問題は、緩慢に近づいてくるそれらをどういうふうに少しずつ遠ざけていくか、天国がひどく魅力的ではないのがわかっているから人は常に重力に支配されていて、死者が横たわる以外の手段を持たないことからもそれはわかる。地獄にはジミヘンもいるしカートコバーンもジムモリソンもジャコ・パストリアスもチャーリーパーカーもリバーフェニックスもいる。鬼とだって戦える。けれど二足歩行がたとえば横たわり地層になる以外の手段を持たなかった人間のあさましい抵抗だとすれば、yとして無限に引き伸ばされたこの肉体はグレコの絵のように目をしょぼしょぼさせている。この部屋はx軸とy軸にながらく支配されている。

 

昼餉と夕餉はカレーにパンを浸したもの。喫煙を何度か繰り返すうちに、喫煙が持っている本来的な性質は時間を遅延させることで、それは十六分音符を八分音符に変換してしまうような行為だと気づいた。

商店街通りの沿いの電柱にうずくまっていると自転車に乗った警官が声をかけてきたことで目を覚ました。二日酔いのときは神の実在を確信する。おまわりさん(と呼ばれうるところの存在者)を照らしていた日の差す中を浮遊霊さながらに歩いていくと八時を大きく過ぎていて、家に帰るとそのまま血みどろの意識を抱えながらまどろんでしまって、バイトには案の定遅刻した。前日の記憶で覚えているのは、踊りながらそのまま消えてしまった女の人と殴り合いの仲介とブラックニッカ、爾来生を受くるも、未だ生を知らず、酒を飲んで思い切り笑えるようになったのはどういうことだ。厭世でもしてろ。数年前には考えられなかったようなことがらに飲み込まれてしまってからすこしばかり生きるのが楽しい。次の日には、監視妄想や正体不明の不安感に見つめられたりしていて、落差は激しい。ラジオからは夜間飛行の朗読が聞こえている。サン=テグジュペリ風の感傷がながらく心臓の脇を貫き続けている、クレジオの書いた地上を見下ろすこどもの存在もそうだが、こどもは、それが好奇心を溢れ出しそうに抱えているあいだは周りにあるあらゆるおそろしさを遠ざける効用がある。精神支柱として置かれたこどもには無数の科学と呪術がくっついていて、その先にはじめて世界が存在する。眼球にうすく巻かれたフィルムのことをそう呼ぶこともある。こどもをしばしば着るとき、その中身は人間ですらないうごめきまわっているぐちゃぐちゃした感情のかたまりで、それはことがらを求めてぐねぐねと動いていて、名前を与えられるのを待っている。与えられた名前と感情には賞味期限があって、それを関係性の名詞につぎこんでしまうと、おしまいまでどうやってきれいに動くかだけの、電車といっしょ。
切符が吸い込まれた。夏の悲鳴が聞こえた。がしかしもはや夏ではなくて、毛布にくるまりながら夏に書き終えていなかった分の日記をもう一度書き直している。夏の幽霊を見ている状態で、それでも、じぶんの心に染みついた夏の印象だけは常に明晰に残されている。たとえば根本季節というものがあって、人間がどういう生き方をしていたとしても避けることのできない、その人個人の一定の意味を伴った季節があって、名前をやもすれば夏とも言う。すくなくともじぶんにとっての季節は、葉桜がいやらしいくらいに爽やかな五月の終わりの、緑色で埋め尽くされた季節で。うすく引き伸ばされた波形がギリシャの拷問に似ていて、季節も同じようにおさがりのままで、その中身を取り出すととたんにねじ切れて死んでしまう。夏が終わって秋があまりに早く過ぎて冬が来て、身体はまるごとからっぽだった。神さまはわたしたちに自由意志なんて大層なものはくれないし、季節はずっと夏のままで、凍結しているし、結託している。ぼろぼろの継ぎ目がついた季節を着るしかない。死体に憑く猫のように、屍鬼のように、名前にはりついて季節を待っている。

あるいは武蔵屋ライス大の精液色の苦痛について

 

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 大食漢なのは昔からで、健啖と呼ぶには少し貧乏性の過ぎる飯の食べ方を続けていたら見事に腹周りにカルマが蓄積されてきた。贅肉と呼ぶものの、現代では筋トレをする余裕がある人間こそが贅を持っているわけであって、さもなくばただ肥え太る以外に道はない。ピケティの数式も体重には当てはまらない。体重は貧困と反比例して増大する。中国人のいつか言っていた日焼け=金持ち説を思い出している。そういえばレッドウィングもドクターマーチンも元々は工場勤めのおっちゃんの靴のお下がりで、いまはそれにウン万も出しているんだから妙な話だ。ナイキの柄物のスニーカーがほしい。ティンバーランドの黄色はアメスピの黄色に繋がって、Cのコードで展開した結果金麦に解決するド・ミ・ソ。メジャーコードといえばこの間インディジョーンズを改めてちゃんと見て、嘘であっても猿が豆食って死ぬことよりもシリアス度の薄い死のシーンにインディアナジョーンズのサイコパスを垣間見た。リチャードボナのソロ中のスキャットで無限に重ねられる珍獣の声を聞き続けている状態に近い。
 脂肪の黄色。ファイトクラブで行われるブラピとの契約めいた自傷行為に使われていたのは長らく人間の脂肪なのだと思っていたけどそれは石鹸の材料であってあれはどうやら硫酸とかだったらしい。ちなみに池袋はあいにくの雨で油ぎった風が吹いて消えてまた凪いで通行人の靴がことごとく汚い。ライチ☆光クラブを読みきって、クロサギを読んで、帰ってくるアテのある二万を貸して、ガストで飯を食って、それとなんだっけ? 光を。ルーメンの語はヌーメンと踏めるというただそれだけ、町を歩いている中国人や韓国人の群れ群れのあいだに、社員証をぶら下げる営業三年目のあいだに、interということがだいじなぜならここはインターネットだから。中間脂肪は垂直に佇む詩聖の現れ、ではなく姿勢のゆがみ引きずられた肉体の凋落だった。凋落だって。
 存在の黄色、十七歳の秋口にかかる銀杏と精液の嫌気の指す黄色を俺は忘れることがないだろう。なぜならそんなもの覚えているはずもない。だがしかしトイレの黄色にうすく照らされたおのが露悪の権化を日増しに見つめるにつれて自分の脳みその裏側からなにやら染み出してはいまいか。八月の終わり、グレコの絵のように引き伸ばされた身体からは角栓飛び出し武蔵屋油多めニンニク入れすぎ明日の胃痛が心配。Pepperくんの乳首はタッチパネルじゃなかったらしい。

えーばんめーすたん

 いくらか将来が暗がりに近づいてきたところで、自分の身体感覚としてほろびが目の当たりになることはあまりない。喫煙税か、せいぜいが宿酔くらいの二択で進行している人間曼荼羅の一種として見える。グレコの引き伸ばされた身体、もしくは任意の表象に照らし合わせてみるとするならば、最近はまたしても酒、三度まで酒、充実した身体、海を見たのは二ヶ月前。一年間の営業職からシンガポール左遷という前世の悪業がインフレ化した友人が、連れて行ってくれたお台場近辺の、レインボーブリッジ沿いの海、羊が海と鳴く、橋をわたるときには必ず絶叫を欠かさないと言っていた友人は持ち前のライフスタイルによってなんとかうまくやっていて、そのたびにガタガタの歯型が薄い唇の間から覗き込む。魂は常に地獄と密接につながっていて、女性の陰毛を繋げ合わせると「この門を潜るものは」で始まる文面に変化するという有名な話がある。お台場の海は心地がよくて、海が大きくて気持ちいいのはおそらくは、部屋に幽閉された身体がその構成物を世界と認識するがゆえに起きるあの種々の煩わしさに苛まれなくなりなにものかの大きさにのみかかずらっていればよいという安寧を覚えるからだろうが、人間はその世界においてすでに自らの身体に幽閉されているためその意は誤謬に過ぎない。俺は何を書いているのだろう。

 また、このようにも俺は聞いた。えこーる。このあいだ貞子vs伽倻子を映画館で4DXで見た。映画体験、ことホラーで重視されるのは聴覚で、なぜならYouTubeの音量は下げることができるが映画館のドルビー5.1surroundは決して逃れることができない(レヴィナスはかつて痛みについてそれを隔たりなき情動性と称していたが、聴覚に対してもその避けがたさについて述べている)。けっこう前にオークラ劇場で『痴漢電車 悶絶!裏夢いじり』という映画(現在は『犯る男』に改題)をやっていて、それがポルノ映画の皮を被ったゼロ年風ホラーだったものだから友人と帰り道「すげえ」の応酬だった。目をそらそうとしてもスクリーンがでかいことと、音がでかいことはすばらしい。玉城ティナがめちゃくちゃかわいかった。なんらかの手段で構成元素をひとつ貰い受けたい。としまえんから電車に乗って、友達のライブを見て、切りたての髪の横、風が通り抜けるのと、二日酔いの兆候を感じながら途中で高円寺を後にした。壇上ではスリーピース革ジャンの化石化した中年たちがバランタインの瓶を飲み干していた。ひどい演奏だった。自分の腹の底に沈殿していく酒や音を戻さないようにしながら山の手に乗った。

ロックロール滞る

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気の抜けたビールを啜りながら数日のことを考えている。記憶は、ひとつには指をさしてそれに目掛けて笑うために存していて、並立する一種のペーソスめいたものを取り払ってどう客体に近づけていくかが肝要になる。そう考えるのであれば、俺がいま啜っているところであるものの金麦大には端的な無用性が含まれていて、その没入の様相が滑稽さとなるだろうと思われるのはどうでもよろしい。麦の味が確かにすること、夜のゆるいスカートが端から端まで捲り上げられていくことをいつも望んでいる。山の手のどれかの喫煙所にでも行くとよくわかる。全員が全員、自分の生命に関わるようなことがあればいいなとほのかに思っていて、それはハイボールの炭酸に組み替えるにはあまりに心細い泡立ちで成り立っていた。そのころ俺はテキーラトニックを頼んでいて、その酸っぱさに冷や汗が出るのが止まらなくなった。ライブハウスの話をしたって、不死性が伴った会話が飛び交っていたり、ああ今年はなんだかベルボトムのおじさんたちが消えていて、あのひとたち死んだのかなあって、実家に帰ったのかなあって、山崎春美とかもそうだったし、なんかたぶんよくあることなんだろうなあって。歌詞を引用するのを毛嫌いしながらもユニコーンのすばらしい日々の歌詞はやっぱりよいもので、暗い話にばかりやたら詳しくなるのが大人のいち条件だとするなら、そろそろ大人になれたのかもしれないと思うことがしきりにある。暗さは、目の眩むような光の一端であって、目に入れても痛くない子供の顔はそのまばゆさに隠されて見ることができない。

そういえば生まれてはじめて灰野敬二を見たんだけど、前の方で腕を組んで棒立ちで眺めている人間と難聴になりそうな音の暴力を聞いていたらなんだかアホらしくなってきた。中島らもはアホらしさの比喩で裸のラリーズをシラフで聞くことというのを使っていたけど、頭も振らないでノイズのひとたちはいったいどこにノルんだろう。目の前でロックンロールフラワーになっている灰野敬二といまにもペッティングしそうなカップルを交互に見ながら、静と動の対比を、カッコつけました。最後まで見ないで途中で出るくらいにはよくわかんなかった。音が大きかったです。ぎらぎら。まばゆさ、まばゆさ、ライブハウスの半径三百メートルばかりには必ず地べたに座り込んで酒を飲んでいる集団があって、あれはまさしく喫煙場の延長戦。喫煙が行われるのはひとつに遅延であり、つまりは自らの時間性の放棄だった。時間性を一本のたばこに集約すること、そのことにおいてからはじめて到来を待ち望む終末論的な思考が前景化してくる。祈りがミジンコほども足りない。昨日は目の据わった中年女性に手をかざされた挙句にさんざんに腹を痛めて、中華屋を出た途端に道路に向かって存在していたか疑わしい教父に呪詛を吐いた。俺の無神論が加速して交通事故を起こした。いまごろ救急車で運ばれているのだろう。憎しみが直截に出なくなって出てくるのは嗚咽だけになった。吐瀉物で酒を抜くのをやめてからますます体調が悪い。コンビニのトイレでウォシュレットを全開にしているとき、もし俺にもう少しばかりロックンロールの神が取り憑いていたなら、とまで考えて、そうだとしてもそれはきっとつらいことなので考えなくていいのだろうと思った。ロックンロールの神は奪う神だろうから。

新宿三丁目からの道すがらが果てしなく迷いあぐねて、この間のゴールデン街の火事を野次馬しに行ったときの、よくわからない透き通った五月の緑色の風があった。翡翠の色をしている。これらの夜の、草の、結露に湿ったにおいのことを滞りと呼ぶとして、カミキリムシを見たある六月の、薄ら寒い不安感をそれに託しておく。