香水がほしいという話

案外、乏しい記憶のほうが身体のなかに色濃く残るということがある。香りや響きは、それがかたちを残さないという一方でひどく心もとないものでありながら、じぶんのなかで占める記憶の割合はそれらのほうがずっと比重というか、重さが。重さが。重さが違うのは彼らの質量の問題ではなくて、みずからの意識の問題に過ぎないと言ってしまえばそう。たとえば焦がした鍋の凄まじい響きはディミニッシュよりもはるかに不和を伴って訪れる。夏、と呼ばれたときには、日から来る痛みや閃光よりもむしろ、夜のひっそりとした山の露に濡れて緑くさいにおいのほうが強い。嗅覚が発達しているというよりは視覚が衰えているというほうがふさわしい。十メートル先の人間が知人である判別が定かではないまま、そのまま近づいていくと、ああ、知人でした、よかった。というような感慨で、あいさつ。あいさつ。その顔の像をきちんとじぶんのなかで捉えていくことができなくなるのは、視力の低下がもたらすひとつの例になる。

人称がぼやけていくから、別に名前をつけなくても楽で、でもそれはいちばん危なっかしいできごとのうちのひとつでもある。名前をつけるのは大事。名前をつけないとその像はどれもぜんぶ同じになってしまう。名前をつけても同じだけど。ただ、名前がフレキシブルに展開して、手塚治虫のマンガみたいに、同じような人間が必然を伴ってあらわれるさまというのは、ここ数年顕著な傾向でもある。映画を見るときにだけ眼鏡をかけるようにしているので、本を読むときにだけ眼鏡をかけるようにしているので、外した途端に人間ぜんぶモネの抽象画かよ、というふうになる。主体のみにくさを知りたくないというあさはかな意識が紛れ込んでいるのがわかっても、じぶんのにきびとか見たくないし、「ぷつッと、ひとつ小豆粒に似た吹出物が、左の乳房の下に見つかり、よく見ると、その吹出物のまわりにも、ぱらぱら小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点して(中略)憎い気がして、お風呂で、お乳の下をタオルできゅっきゅっと皮のすりむけるほど、こすりました。それが、いけなかったようで」すし。見えすぎるのはよくないですし*1。視覚は最悪の場合死ぬだけで済むから楽(目玉を焼かれることは太陽に祝福されることでもある)、それは肉体の死だから、魂の死じゃないから、「名前や響きは煙に過ぎない」とも言われている、ほんとうのものは名前や響きに過ぎない。響きに名前を付けることのおぞましさというのはずっと長い音楽についてのみんなの話でわかっているし、人間の視覚というのは眼球がレンズ状であるその前提ですでに歪められているから神を眼差すことができない。聴覚は耳介で集められて音波は外耳道を伝い音波を増幅させ鼓膜を震わすので、ムキムキの神があらわれることになる。「生音の響きがよくないとアンプも鳴らないから」じゃないんだよ、ローリング・ストーンズのTシャツを着るな。ローリング・ストーンズのTシャツを着るな。泣かすぞ。うすいにおいを伴って、記憶と名付けられる響きが夜を越えて明け方のほうまで進行していくこと。光景は野辺送りにそっくりで、すこし歪んだクリーントーンはそれぞれの輪郭をぼやけさせていて、フレットノイズが気になる。午前四時よりもうちょっとあと。鼻だけが墓標の合間から真っ先に伸びている。線香みたいに。

起き抜けに着たジャケットに弟の香水のにおいが染み付いていたので、じぶんの香水がほしいと思いました。冬です。おれもにおいで人間を倒したい。ローリング・ストーンズのTシャツ着てる四十代のバンドマンを倒したい。冬です。記憶で人間を殴りたい。

*1:日記で太宰を引用するような人間に零落してしまった。全国の青年の怨霊がおれの肩の上に乗っかっていて(『屍鬼二十五話』によればヴェータールはトリヴィクラマセーナにしがみつき物語を語る)、そいつらは夜毎に快楽原則と最大多数の最大幸福を説いている。神学的に人間の自由意志が認められていないということを反駁すると、そいつらは神の不在について語り始めるのでおれはイサクルリアにおける言語発生論を引っ張り出す。しかし、たのしいことはしたいし、わるいこともしたいんだけど、したいのにもかかわらず、童貞の心、  閲覧され/ 雨が降ってい / さき/ よりの 四天