商店街通りの沿いの電柱にうずくまっていると自転車に乗った警官が声をかけてきたことで目を覚ました。二日酔いのときは神の実在を確信する。おまわりさん(と呼ばれうるところの存在者)を照らしていた日の差す中を浮遊霊さながらに歩いていくと八時を大きく過ぎていて、家に帰るとそのまま血みどろの意識を抱えながらまどろんでしまって、バイトには案の定遅刻した。前日の記憶で覚えているのは、踊りながらそのまま消えてしまった女の人と殴り合いの仲介とブラックニッカ、爾来生を受くるも、未だ生を知らず、酒を飲んで思い切り笑えるようになったのはどういうことだ。厭世でもしてろ。数年前には考えられなかったようなことがらに飲み込まれてしまってからすこしばかり生きるのが楽しい。次の日には、監視妄想や正体不明の不安感に見つめられたりしていて、落差は激しい。ラジオからは夜間飛行の朗読が聞こえている。サン=テグジュペリ風の感傷がながらく心臓の脇を貫き続けている、クレジオの書いた地上を見下ろすこどもの存在もそうだが、こどもは、それが好奇心を溢れ出しそうに抱えているあいだは周りにあるあらゆるおそろしさを遠ざける効用がある。精神支柱として置かれたこどもには無数の科学と呪術がくっついていて、その先にはじめて世界が存在する。眼球にうすく巻かれたフィルムのことをそう呼ぶこともある。こどもをしばしば着るとき、その中身は人間ですらないうごめきまわっているぐちゃぐちゃした感情のかたまりで、それはことがらを求めてぐねぐねと動いていて、名前を与えられるのを待っている。与えられた名前と感情には賞味期限があって、それを関係性の名詞につぎこんでしまうと、おしまいまでどうやってきれいに動くかだけの、電車といっしょ。
切符が吸い込まれた。夏の悲鳴が聞こえた。がしかしもはや夏ではなくて、毛布にくるまりながら夏に書き終えていなかった分の日記をもう一度書き直している。夏の幽霊を見ている状態で、それでも、じぶんの心に染みついた夏の印象だけは常に明晰に残されている。たとえば根本季節というものがあって、人間がどういう生き方をしていたとしても避けることのできない、その人個人の一定の意味を伴った季節があって、名前をやもすれば夏とも言う。すくなくともじぶんにとっての季節は、葉桜がいやらしいくらいに爽やかな五月の終わりの、緑色で埋め尽くされた季節で。うすく引き伸ばされた波形がギリシャの拷問に似ていて、季節も同じようにおさがりのままで、その中身を取り出すととたんにねじ切れて死んでしまう。夏が終わって秋があまりに早く過ぎて冬が来て、身体はまるごとからっぽだった。神さまはわたしたちに自由意志なんて大層なものはくれないし、季節はずっと夏のままで、凍結しているし、結託している。ぼろぼろの継ぎ目がついた季節を着るしかない。死体に憑く猫のように、屍鬼のように、名前にはりついて季節を待っている。