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ロックロール滞る

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気の抜けたビールを啜りながら数日のことを考えている。記憶は、ひとつには指をさしてそれに目掛けて笑うために存していて、並立する一種のペーソスめいたものを取り払ってどう客体に近づけていくかが肝要になる。そう考えるのであれば、俺がいま啜っているところであるものの金麦大には端的な無用性が含まれていて、その没入の様相が滑稽さとなるだろうと思われるのはどうでもよろしい。麦の味が確かにすること、夜のゆるいスカートが端から端まで捲り上げられていくことをいつも望んでいる。山の手のどれかの喫煙所にでも行くとよくわかる。全員が全員、自分の生命に関わるようなことがあればいいなとほのかに思っていて、それはハイボールの炭酸に組み替えるにはあまりに心細い泡立ちで成り立っていた。そのころ俺はテキーラトニックを頼んでいて、その酸っぱさに冷や汗が出るのが止まらなくなった。ライブハウスの話をしたって、不死性が伴った会話が飛び交っていたり、ああ今年はなんだかベルボトムのおじさんたちが消えていて、あのひとたち死んだのかなあって、実家に帰ったのかなあって、山崎春美とかもそうだったし、なんかたぶんよくあることなんだろうなあって。歌詞を引用するのを毛嫌いしながらもユニコーンのすばらしい日々の歌詞はやっぱりよいもので、暗い話にばかりやたら詳しくなるのが大人のいち条件だとするなら、そろそろ大人になれたのかもしれないと思うことがしきりにある。暗さは、目の眩むような光の一端であって、目に入れても痛くない子供の顔はそのまばゆさに隠されて見ることができない。

そういえば生まれてはじめて灰野敬二を見たんだけど、前の方で腕を組んで棒立ちで眺めている人間と難聴になりそうな音の暴力を聞いていたらなんだかアホらしくなってきた。中島らもはアホらしさの比喩で裸のラリーズをシラフで聞くことというのを使っていたけど、頭も振らないでノイズのひとたちはいったいどこにノルんだろう。目の前でロックンロールフラワーになっている灰野敬二といまにもペッティングしそうなカップルを交互に見ながら、静と動の対比を、カッコつけました。最後まで見ないで途中で出るくらいにはよくわかんなかった。音が大きかったです。ぎらぎら。まばゆさ、まばゆさ、ライブハウスの半径三百メートルばかりには必ず地べたに座り込んで酒を飲んでいる集団があって、あれはまさしく喫煙場の延長戦。喫煙が行われるのはひとつに遅延であり、つまりは自らの時間性の放棄だった。時間性を一本のたばこに集約すること、そのことにおいてからはじめて到来を待ち望む終末論的な思考が前景化してくる。祈りがミジンコほども足りない。昨日は目の据わった中年女性に手をかざされた挙句にさんざんに腹を痛めて、中華屋を出た途端に道路に向かって存在していたか疑わしい教父に呪詛を吐いた。俺の無神論が加速して交通事故を起こした。いまごろ救急車で運ばれているのだろう。憎しみが直截に出なくなって出てくるのは嗚咽だけになった。吐瀉物で酒を抜くのをやめてからますます体調が悪い。コンビニのトイレでウォシュレットを全開にしているとき、もし俺にもう少しばかりロックンロールの神が取り憑いていたなら、とまで考えて、そうだとしてもそれはきっとつらいことなので考えなくていいのだろうと思った。ロックンロールの神は奪う神だろうから。

新宿三丁目からの道すがらが果てしなく迷いあぐねて、この間のゴールデン街の火事を野次馬しに行ったときの、よくわからない透き通った五月の緑色の風があった。翡翠の色をしている。これらの夜の、草の、結露に湿ったにおいのことを滞りと呼ぶとして、カミキリムシを見たある六月の、薄ら寒い不安感をそれに託しておく。