野菜堪らず越境

もうずいぶん他人の持ち物が部屋に散らかっていて、いくつものそれを見ていると隔たりがゆるくほぐれている気分がする。拾った楽器はこれで二つ目、それと友達のベースギターとパクったオーディオインターフェースBOSEのルーパー、喜ばしくないものはいくつかあって、忘れ物の衣類やバッグに囲まれているとこれぞ借りぐらし。服の大概は親父のお下がりで、トルネードマートのチンピラっぽいシャツは夏場に活用できるのでいまだに置いてある。たとえば侵入されるというか、心を許すというか、ものを置いていくということはそれがある時点で他者が居座っているようなもので、つまりここには何人ものにんげんがひしめいているし、にんげんが管だったころは直通で排泄されるのは常にことばか排泄物だったはずだけど、その名残なのか、ものどもは耐えず埃を吸い込んで生きているし、連続を逸したままで、つまり直線的なかたちで記憶を産出している。建築物はそこに住むものを遠ざけた途端に一気に朽ちてしまうだが、それはにんげんの皮脂が足りなくなってしまうからだそうだ。その合間には建築自身が、筋肉を溶かす飢えた男のように、自己自身のなかで記憶を再生産して、やがてそのひとのことを忘れてしまってそれを捨てられるまでのあいだ、その自体をどうにかして維持しようとものどもが蠢いているに違いない。

火加減の問題。とかく男は料理の度に強火にしたがること。大雑把。境界線を引くに引けない。遠ざけてしまうのは心にあまりよくないから。だから野菜炒めは焦げる。常にそのリスクを念頭に置きながらも、結局は焦げるならもう少しおいしいほうがよかったな、という一介の生活、生活を、ハンマーとか。あとグラスとか。にんげんがひしめいて、ハンマーがある。ハンマーで殴る。泣く。ミーム。管状のそれらミミズのことをなんて呼べばいいだろうか。そのものの自体はあくまでも動かないというレイヤーの外にはなく、しかしもっと焼け焦げた野菜炒めのペーソスに近い。それらには魂が認められていない。動物は動くが魂はなく、石は動かないし魂もない。死んだネコは惨めに死んだけれどそもそも救われているいないの話の中にはいない。死んだネコの灰に死んだネコはいない。死んだネコの灰の山は一粒一粒砂と入れ替えていくと砂山になる。だからこれは野菜炒めではなく、そのペーソスであると言うに相応しい。キャベツが固い。生きるのはつらい(か?)そこまでじゃない。ものどもはぎゅうぎゅう詰め。そして置かれているそのすべての負債がいつ襲いかかるかと言われれば、劇的にやってくるのではなくて、むしろバレないようにしんしんと歩いてくることだろう。その経過は心的な必然であって戸惑うべきことではない、ただ後ろを向いたときに塩の柱になっていることがわかる、その床はボロボロになっているに違いない。