7+5=12

起きて、灰皿の中身が他人のたばこでいっぱいになっていて、昼過ぎで、西日が近づいて、電気代の催促状がドアの下に挟まれていて、車の音が聞こえて、膝や肘にからんだ痛みがにわかにたちのぼって、確かめる。伸びをしようとすると押し入れのあいだにからだが挟まって、ちょうどじぶんが押し入れにいることをおもって、夜ともなく昼ともなくなっていた、とうに正体を逸していた。永遠に人間どもは起きなく、コールドスリープを反復する死体の山々にかしずかれながら、考える、小学生、遠足に行ったら最後まで寝れなくて何人もの寝顔を眺めるほかに帰り道を待つ手段はなく、ものを言わない彼ら彼女らはそれでも眠りのなかで起きるのを待っている、したがって音を出すことも、動くことさえ許さないような権力を彼らの肉体は有している、やわい殯の感触を身動きの取れなさから来る不快に託しながら、同様にじぶんの肉体も彼らをなぞらえざるを得ない。起こせばいいというものでもない。呪いに似ている。哲学者は他者が地獄であると言ったが、地獄は生ぬるくて昨日の酒のきしみだけを阿頼耶識に蓄えていて、あとは別段気にするようなこともない。それぞれがふんわりとした地獄をじぶんの魂のうちにサルベージしている。問題は、緩慢に近づいてくるそれらをどういうふうに少しずつ遠ざけていくか、天国がひどく魅力的ではないのがわかっているから人は常に重力に支配されていて、死者が横たわる以外の手段を持たないことからもそれはわかる。地獄にはジミヘンもいるしカートコバーンもジムモリソンもジャコ・パストリアスもチャーリーパーカーもリバーフェニックスもいる。鬼とだって戦える。けれど二足歩行がたとえば横たわり地層になる以外の手段を持たなかった人間のあさましい抵抗だとすれば、yとして無限に引き伸ばされたこの肉体はグレコの絵のように目をしょぼしょぼさせている。この部屋はx軸とy軸にながらく支配されている。

 

昼餉と夕餉はカレーにパンを浸したもの。喫煙を何度か繰り返すうちに、喫煙が持っている本来的な性質は時間を遅延させることで、それは十六分音符を八分音符に変換してしまうような行為だと気づいた。

商店街通りの沿いの電柱にうずくまっていると自転車に乗った警官が声をかけてきたことで目を覚ました。二日酔いのときは神の実在を確信する。おまわりさん(と呼ばれうるところの存在者)を照らしていた日の差す中を浮遊霊さながらに歩いていくと八時を大きく過ぎていて、家に帰るとそのまま血みどろの意識を抱えながらまどろんでしまって、バイトには案の定遅刻した。前日の記憶で覚えているのは、踊りながらそのまま消えてしまった女の人と殴り合いの仲介とブラックニッカ、爾来生を受くるも、未だ生を知らず、酒を飲んで思い切り笑えるようになったのはどういうことだ。厭世でもしてろ。数年前には考えられなかったようなことがらに飲み込まれてしまってからすこしばかり生きるのが楽しい。次の日には、監視妄想や正体不明の不安感に見つめられたりしていて、落差は激しい。ラジオからは夜間飛行の朗読が聞こえている。サン=テグジュペリ風の感傷がながらく心臓の脇を貫き続けている、クレジオの書いた地上を見下ろすこどもの存在もそうだが、こどもは、それが好奇心を溢れ出しそうに抱えているあいだは周りにあるあらゆるおそろしさを遠ざける効用がある。精神支柱として置かれたこどもには無数の科学と呪術がくっついていて、その先にはじめて世界が存在する。眼球にうすく巻かれたフィルムのことをそう呼ぶこともある。こどもをしばしば着るとき、その中身は人間ですらないうごめきまわっているぐちゃぐちゃした感情のかたまりで、それはことがらを求めてぐねぐねと動いていて、名前を与えられるのを待っている。与えられた名前と感情には賞味期限があって、それを関係性の名詞につぎこんでしまうと、おしまいまでどうやってきれいに動くかだけの、電車といっしょ。
切符が吸い込まれた。夏の悲鳴が聞こえた。がしかしもはや夏ではなくて、毛布にくるまりながら夏に書き終えていなかった分の日記をもう一度書き直している。夏の幽霊を見ている状態で、それでも、じぶんの心に染みついた夏の印象だけは常に明晰に残されている。たとえば根本季節というものがあって、人間がどういう生き方をしていたとしても避けることのできない、その人個人の一定の意味を伴った季節があって、名前をやもすれば夏とも言う。すくなくともじぶんにとっての季節は、葉桜がいやらしいくらいに爽やかな五月の終わりの、緑色で埋め尽くされた季節で。うすく引き伸ばされた波形がギリシャの拷問に似ていて、季節も同じようにおさがりのままで、その中身を取り出すととたんにねじ切れて死んでしまう。夏が終わって秋があまりに早く過ぎて冬が来て、身体はまるごとからっぽだった。神さまはわたしたちに自由意志なんて大層なものはくれないし、季節はずっと夏のままで、凍結しているし、結託している。ぼろぼろの継ぎ目がついた季節を着るしかない。死体に憑く猫のように、屍鬼のように、名前にはりついて季節を待っている。

あるいは武蔵屋ライス大の精液色の苦痛について

 

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 大食漢なのは昔からで、健啖と呼ぶには少し貧乏性の過ぎる飯の食べ方を続けていたら見事に腹周りにカルマが蓄積されてきた。贅肉と呼ぶものの、現代では筋トレをする余裕がある人間こそが贅を持っているわけであって、さもなくばただ肥え太る以外に道はない。ピケティの数式も体重には当てはまらない。体重は貧困と反比例して増大する。中国人のいつか言っていた日焼け=金持ち説を思い出している。そういえばレッドウィングもドクターマーチンも元々は工場勤めのおっちゃんの靴のお下がりで、いまはそれにウン万も出しているんだから妙な話だ。ナイキの柄物のスニーカーがほしい。ティンバーランドの黄色はアメスピの黄色に繋がって、Cのコードで展開した結果金麦に解決するド・ミ・ソ。メジャーコードといえばこの間インディジョーンズを改めてちゃんと見て、嘘であっても猿が豆食って死ぬことよりもシリアス度の薄い死のシーンにインディアナジョーンズのサイコパスを垣間見た。リチャードボナのソロ中のスキャットで無限に重ねられる珍獣の声を聞き続けている状態に近い。
 脂肪の黄色。ファイトクラブで行われるブラピとの契約めいた自傷行為に使われていたのは長らく人間の脂肪なのだと思っていたけどそれは石鹸の材料であってあれはどうやら硫酸とかだったらしい。ちなみに池袋はあいにくの雨で油ぎった風が吹いて消えてまた凪いで通行人の靴がことごとく汚い。ライチ☆光クラブを読みきって、クロサギを読んで、帰ってくるアテのある二万を貸して、ガストで飯を食って、それとなんだっけ? 光を。ルーメンの語はヌーメンと踏めるというただそれだけ、町を歩いている中国人や韓国人の群れ群れのあいだに、社員証をぶら下げる営業三年目のあいだに、interということがだいじなぜならここはインターネットだから。中間脂肪は垂直に佇む詩聖の現れ、ではなく姿勢のゆがみ引きずられた肉体の凋落だった。凋落だって。
 存在の黄色、十七歳の秋口にかかる銀杏と精液の嫌気の指す黄色を俺は忘れることがないだろう。なぜならそんなもの覚えているはずもない。だがしかしトイレの黄色にうすく照らされたおのが露悪の権化を日増しに見つめるにつれて自分の脳みその裏側からなにやら染み出してはいまいか。八月の終わり、グレコの絵のように引き伸ばされた身体からは角栓飛び出し武蔵屋油多めニンニク入れすぎ明日の胃痛が心配。Pepperくんの乳首はタッチパネルじゃなかったらしい。

えーばんめーすたん

 いくらか将来が暗がりに近づいてきたところで、自分の身体感覚としてほろびが目の当たりになることはあまりない。喫煙税か、せいぜいが宿酔くらいの二択で進行している人間曼荼羅の一種として見える。グレコの引き伸ばされた身体、もしくは任意の表象に照らし合わせてみるとするならば、最近はまたしても酒、三度まで酒、充実した身体、海を見たのは二ヶ月前。一年間の営業職からシンガポール左遷という前世の悪業がインフレ化した友人が、連れて行ってくれたお台場近辺の、レインボーブリッジ沿いの海、羊が海と鳴く、橋をわたるときには必ず絶叫を欠かさないと言っていた友人は持ち前のライフスタイルによってなんとかうまくやっていて、そのたびにガタガタの歯型が薄い唇の間から覗き込む。魂は常に地獄と密接につながっていて、女性の陰毛を繋げ合わせると「この門を潜るものは」で始まる文面に変化するという有名な話がある。お台場の海は心地がよくて、海が大きくて気持ちいいのはおそらくは、部屋に幽閉された身体がその構成物を世界と認識するがゆえに起きるあの種々の煩わしさに苛まれなくなりなにものかの大きさにのみかかずらっていればよいという安寧を覚えるからだろうが、人間はその世界においてすでに自らの身体に幽閉されているためその意は誤謬に過ぎない。俺は何を書いているのだろう。

 また、このようにも俺は聞いた。えこーる。このあいだ貞子vs伽倻子を映画館で4DXで見た。映画体験、ことホラーで重視されるのは聴覚で、なぜならYouTubeの音量は下げることができるが映画館のドルビー5.1surroundは決して逃れることができない(レヴィナスはかつて痛みについてそれを隔たりなき情動性と称していたが、聴覚に対してもその避けがたさについて述べている)。けっこう前にオークラ劇場で『痴漢電車 悶絶!裏夢いじり』という映画(現在は『犯る男』に改題)をやっていて、それがポルノ映画の皮を被ったゼロ年風ホラーだったものだから友人と帰り道「すげえ」の応酬だった。目をそらそうとしてもスクリーンがでかいことと、音がでかいことはすばらしい。玉城ティナがめちゃくちゃかわいかった。なんらかの手段で構成元素をひとつ貰い受けたい。としまえんから電車に乗って、友達のライブを見て、切りたての髪の横、風が通り抜けるのと、二日酔いの兆候を感じながら途中で高円寺を後にした。壇上ではスリーピース革ジャンの化石化した中年たちがバランタインの瓶を飲み干していた。ひどい演奏だった。自分の腹の底に沈殿していく酒や音を戻さないようにしながら山の手に乗った。

ロックロール滞る

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気の抜けたビールを啜りながら数日のことを考えている。記憶は、ひとつには指をさしてそれに目掛けて笑うために存していて、並立する一種のペーソスめいたものを取り払ってどう客体に近づけていくかが肝要になる。そう考えるのであれば、俺がいま啜っているところであるものの金麦大には端的な無用性が含まれていて、その没入の様相が滑稽さとなるだろうと思われるのはどうでもよろしい。麦の味が確かにすること、夜のゆるいスカートが端から端まで捲り上げられていくことをいつも望んでいる。山の手のどれかの喫煙所にでも行くとよくわかる。全員が全員、自分の生命に関わるようなことがあればいいなとほのかに思っていて、それはハイボールの炭酸に組み替えるにはあまりに心細い泡立ちで成り立っていた。そのころ俺はテキーラトニックを頼んでいて、その酸っぱさに冷や汗が出るのが止まらなくなった。ライブハウスの話をしたって、不死性が伴った会話が飛び交っていたり、ああ今年はなんだかベルボトムのおじさんたちが消えていて、あのひとたち死んだのかなあって、実家に帰ったのかなあって、山崎春美とかもそうだったし、なんかたぶんよくあることなんだろうなあって。歌詞を引用するのを毛嫌いしながらもユニコーンのすばらしい日々の歌詞はやっぱりよいもので、暗い話にばかりやたら詳しくなるのが大人のいち条件だとするなら、そろそろ大人になれたのかもしれないと思うことがしきりにある。暗さは、目の眩むような光の一端であって、目に入れても痛くない子供の顔はそのまばゆさに隠されて見ることができない。

そういえば生まれてはじめて灰野敬二を見たんだけど、前の方で腕を組んで棒立ちで眺めている人間と難聴になりそうな音の暴力を聞いていたらなんだかアホらしくなってきた。中島らもはアホらしさの比喩で裸のラリーズをシラフで聞くことというのを使っていたけど、頭も振らないでノイズのひとたちはいったいどこにノルんだろう。目の前でロックンロールフラワーになっている灰野敬二といまにもペッティングしそうなカップルを交互に見ながら、静と動の対比を、カッコつけました。最後まで見ないで途中で出るくらいにはよくわかんなかった。音が大きかったです。ぎらぎら。まばゆさ、まばゆさ、ライブハウスの半径三百メートルばかりには必ず地べたに座り込んで酒を飲んでいる集団があって、あれはまさしく喫煙場の延長戦。喫煙が行われるのはひとつに遅延であり、つまりは自らの時間性の放棄だった。時間性を一本のたばこに集約すること、そのことにおいてからはじめて到来を待ち望む終末論的な思考が前景化してくる。祈りがミジンコほども足りない。昨日は目の据わった中年女性に手をかざされた挙句にさんざんに腹を痛めて、中華屋を出た途端に道路に向かって存在していたか疑わしい教父に呪詛を吐いた。俺の無神論が加速して交通事故を起こした。いまごろ救急車で運ばれているのだろう。憎しみが直截に出なくなって出てくるのは嗚咽だけになった。吐瀉物で酒を抜くのをやめてからますます体調が悪い。コンビニのトイレでウォシュレットを全開にしているとき、もし俺にもう少しばかりロックンロールの神が取り憑いていたなら、とまで考えて、そうだとしてもそれはきっとつらいことなので考えなくていいのだろうと思った。ロックンロールの神は奪う神だろうから。

新宿三丁目からの道すがらが果てしなく迷いあぐねて、この間のゴールデン街の火事を野次馬しに行ったときの、よくわからない透き通った五月の緑色の風があった。翡翠の色をしている。これらの夜の、草の、結露に湿ったにおいのことを滞りと呼ぶとして、カミキリムシを見たある六月の、薄ら寒い不安感をそれに託しておく。

野菜堪らず越境

もうずいぶん他人の持ち物が部屋に散らかっていて、いくつものそれを見ていると隔たりがゆるくほぐれている気分がする。拾った楽器はこれで二つ目、それと友達のベースギターとパクったオーディオインターフェースBOSEのルーパー、喜ばしくないものはいくつかあって、忘れ物の衣類やバッグに囲まれているとこれぞ借りぐらし。服の大概は親父のお下がりで、トルネードマートのチンピラっぽいシャツは夏場に活用できるのでいまだに置いてある。たとえば侵入されるというか、心を許すというか、ものを置いていくということはそれがある時点で他者が居座っているようなもので、つまりここには何人ものにんげんがひしめいているし、にんげんが管だったころは直通で排泄されるのは常にことばか排泄物だったはずだけど、その名残なのか、ものどもは耐えず埃を吸い込んで生きているし、連続を逸したままで、つまり直線的なかたちで記憶を産出している。建築物はそこに住むものを遠ざけた途端に一気に朽ちてしまうだが、それはにんげんの皮脂が足りなくなってしまうからだそうだ。その合間には建築自身が、筋肉を溶かす飢えた男のように、自己自身のなかで記憶を再生産して、やがてそのひとのことを忘れてしまってそれを捨てられるまでのあいだ、その自体をどうにかして維持しようとものどもが蠢いているに違いない。

火加減の問題。とかく男は料理の度に強火にしたがること。大雑把。境界線を引くに引けない。遠ざけてしまうのは心にあまりよくないから。だから野菜炒めは焦げる。常にそのリスクを念頭に置きながらも、結局は焦げるならもう少しおいしいほうがよかったな、という一介の生活、生活を、ハンマーとか。あとグラスとか。にんげんがひしめいて、ハンマーがある。ハンマーで殴る。泣く。ミーム。管状のそれらミミズのことをなんて呼べばいいだろうか。そのものの自体はあくまでも動かないというレイヤーの外にはなく、しかしもっと焼け焦げた野菜炒めのペーソスに近い。それらには魂が認められていない。動物は動くが魂はなく、石は動かないし魂もない。死んだネコは惨めに死んだけれどそもそも救われているいないの話の中にはいない。死んだネコの灰に死んだネコはいない。死んだネコの灰の山は一粒一粒砂と入れ替えていくと砂山になる。だからこれは野菜炒めではなく、そのペーソスであると言うに相応しい。キャベツが固い。生きるのはつらい(か?)そこまでじゃない。ものどもはぎゅうぎゅう詰め。そして置かれているそのすべての負債がいつ襲いかかるかと言われれば、劇的にやってくるのではなくて、むしろバレないようにしんしんと歩いてくることだろう。その経過は心的な必然であって戸惑うべきことではない、ただ後ろを向いたときに塩の柱になっていることがわかる、その床はボロボロになっているに違いない。

グラデーション

弟に連絡が取れるようにしてくれと電話越しの声が聞こえたのは昼を大幅に過ぎたころだった。地元で麻雀でたいそう羽振りがよろしくなったらしい知人の声は数年前に比べると少し低くなっていた。長閑とした陽の光とかを浴びているにもかかわらず腸の底はもたれてきて、鈍い獣らしい音を立てて、吸っている煙草の灰を一緒に吸い込んでいるような気分だった。あいつ俺に三十万借りようとしてたんだけど、でますます気分が悪くなって、二日くらい伝書鳩を繰り返した。それから知人からの連絡はない。それらの手前で母親から送られてきた弟の成人式の写真を見ているだけに、やっぱり長くはなさそうという漠然とした実感が大きくなる。肺気胸で野球部を辞めて、それからは家で煙を吹いて生きていたような弟だから、案の定親の脛を兄弟ともどもで齧り尽くしている状態だが、たまに訪れる可哀想という感覚自体がどうにも俺としても如何ともし難い。数日もすれば忘れるので、父親からの連絡をほどほどにこなしている間に、台東区らへんで天井を眺めて次の夜勤を待っているだろう弟の姿を想像することはなくなった。

ペンネのゆで方が毎回うまくいかず、近くの業務用スーパーで買い込む度に失敗してデロデロのグチャグチャになったペンネを半泣きで啜っている。ゆで時間がおそらく悪いのだろうとは思う。水に漬けて一時間、とうとう日常的に摂取するペンネに親しくなった。台所は時間の経過と共に新たな生命を生んでいる。ここには宇宙がある。腐臭がする度に寝室に逃げ込むがそれらも無駄なあがきだ。主に畳まれず山積みになった衣類を寄り代とするものども、あのものどもをどうにかするというところから契機である。このものどもをどうにかしないことにはそもそも生活以前の状態で留まり続けるわけ。滞留。どぅむーる。ムール貝を初めて食べたのはサイゼリヤで、神の雫って漫画にふたりともハマっていたからスパークリングワインのデカンタの感想を言い合っていた。うらびれた海岸の砂浜に埋まっている百円ライターのような味だった。そのあとに服を買って、スロットに千円突っ込んで負けた。四分の一の値段だったからまだよかった。総武線に乗り込むときに景色がどんどん重たくなるのがわかった。窓の外で質量を持った夜が横たわっていた。

生まれてから一度も要領よくことが運んだことはなかった。つまりはリズム感の問題。四拍子から五拍子への移行が苦手で、反対に四拍子から三拍子はひとつ減らせばいいだけだから簡単。五拍子になった途端に世界全体が悪意を持った一個人として襲い掛かってくる。三拍子みたいにはいかない、三拍子は基本Dのコードが似合うと思っている、でも五拍子はよくわからない、四拍なら六十進数にも対応可能でだから楽なんだろうとは思う、キックの押し方、ショウリョウバッタ、冬が寒い、涙がしたい、はペソアからの引用、たいそう寒い、三拍子でしか捉えにくい。