えーばんめーすたん

 いくらか将来が暗がりに近づいてきたところで、自分の身体感覚としてほろびが目の当たりになることはあまりない。喫煙税か、せいぜいが宿酔くらいの二択で進行している人間曼荼羅の一種として見える。グレコの引き伸ばされた身体、もしくは任意の表象に照らし合わせてみるとするならば、最近はまたしても酒、三度まで酒、充実した身体、海を見たのは二ヶ月前。一年間の営業職からシンガポール左遷という前世の悪業がインフレ化した友人が、連れて行ってくれたお台場近辺の、レインボーブリッジ沿いの海、羊が海と鳴く、橋をわたるときには必ず絶叫を欠かさないと言っていた友人は持ち前のライフスタイルによってなんとかうまくやっていて、そのたびにガタガタの歯型が薄い唇の間から覗き込む。魂は常に地獄と密接につながっていて、女性の陰毛を繋げ合わせると「この門を潜るものは」で始まる文面に変化するという有名な話がある。お台場の海は心地がよくて、海が大きくて気持ちいいのはおそらくは、部屋に幽閉された身体がその構成物を世界と認識するがゆえに起きるあの種々の煩わしさに苛まれなくなりなにものかの大きさにのみかかずらっていればよいという安寧を覚えるからだろうが、人間はその世界においてすでに自らの身体に幽閉されているためその意は誤謬に過ぎない。俺は何を書いているのだろう。

 また、このようにも俺は聞いた。えこーる。このあいだ貞子vs伽倻子を映画館で4DXで見た。映画体験、ことホラーで重視されるのは聴覚で、なぜならYouTubeの音量は下げることができるが映画館のドルビー5.1surroundは決して逃れることができない(レヴィナスはかつて痛みについてそれを隔たりなき情動性と称していたが、聴覚に対してもその避けがたさについて述べている)。けっこう前にオークラ劇場で『痴漢電車 悶絶!裏夢いじり』という映画(現在は『犯る男』に改題)をやっていて、それがポルノ映画の皮を被ったゼロ年風ホラーだったものだから友人と帰り道「すげえ」の応酬だった。目をそらそうとしてもスクリーンがでかいことと、音がでかいことはすばらしい。玉城ティナがめちゃくちゃかわいかった。なんらかの手段で構成元素をひとつ貰い受けたい。としまえんから電車に乗って、友達のライブを見て、切りたての髪の横、風が通り抜けるのと、二日酔いの兆候を感じながら途中で高円寺を後にした。壇上ではスリーピース革ジャンの化石化した中年たちがバランタインの瓶を飲み干していた。ひどい演奏だった。自分の腹の底に沈殿していく酒や音を戻さないようにしながら山の手に乗った。

ロックロール滞る

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気の抜けたビールを啜りながら数日のことを考えている。記憶は、ひとつには指をさしてそれに目掛けて笑うために存していて、並立する一種のペーソスめいたものを取り払ってどう客体に近づけていくかが肝要になる。そう考えるのであれば、俺がいま啜っているところであるものの金麦大には端的な無用性が含まれていて、その没入の様相が滑稽さとなるだろうと思われるのはどうでもよろしい。麦の味が確かにすること、夜のゆるいスカートが端から端まで捲り上げられていくことをいつも望んでいる。山の手のどれかの喫煙所にでも行くとよくわかる。全員が全員、自分の生命に関わるようなことがあればいいなとほのかに思っていて、それはハイボールの炭酸に組み替えるにはあまりに心細い泡立ちで成り立っていた。そのころ俺はテキーラトニックを頼んでいて、その酸っぱさに冷や汗が出るのが止まらなくなった。ライブハウスの話をしたって、不死性が伴った会話が飛び交っていたり、ああ今年はなんだかベルボトムのおじさんたちが消えていて、あのひとたち死んだのかなあって、実家に帰ったのかなあって、山崎春美とかもそうだったし、なんかたぶんよくあることなんだろうなあって。歌詞を引用するのを毛嫌いしながらもユニコーンのすばらしい日々の歌詞はやっぱりよいもので、暗い話にばかりやたら詳しくなるのが大人のいち条件だとするなら、そろそろ大人になれたのかもしれないと思うことがしきりにある。暗さは、目の眩むような光の一端であって、目に入れても痛くない子供の顔はそのまばゆさに隠されて見ることができない。

そういえば生まれてはじめて灰野敬二を見たんだけど、前の方で腕を組んで棒立ちで眺めている人間と難聴になりそうな音の暴力を聞いていたらなんだかアホらしくなってきた。中島らもはアホらしさの比喩で裸のラリーズをシラフで聞くことというのを使っていたけど、頭も振らないでノイズのひとたちはいったいどこにノルんだろう。目の前でロックンロールフラワーになっている灰野敬二といまにもペッティングしそうなカップルを交互に見ながら、静と動の対比を、カッコつけました。最後まで見ないで途中で出るくらいにはよくわかんなかった。音が大きかったです。ぎらぎら。まばゆさ、まばゆさ、ライブハウスの半径三百メートルばかりには必ず地べたに座り込んで酒を飲んでいる集団があって、あれはまさしく喫煙場の延長戦。喫煙が行われるのはひとつに遅延であり、つまりは自らの時間性の放棄だった。時間性を一本のたばこに集約すること、そのことにおいてからはじめて到来を待ち望む終末論的な思考が前景化してくる。祈りがミジンコほども足りない。昨日は目の据わった中年女性に手をかざされた挙句にさんざんに腹を痛めて、中華屋を出た途端に道路に向かって存在していたか疑わしい教父に呪詛を吐いた。俺の無神論が加速して交通事故を起こした。いまごろ救急車で運ばれているのだろう。憎しみが直截に出なくなって出てくるのは嗚咽だけになった。吐瀉物で酒を抜くのをやめてからますます体調が悪い。コンビニのトイレでウォシュレットを全開にしているとき、もし俺にもう少しばかりロックンロールの神が取り憑いていたなら、とまで考えて、そうだとしてもそれはきっとつらいことなので考えなくていいのだろうと思った。ロックンロールの神は奪う神だろうから。

新宿三丁目からの道すがらが果てしなく迷いあぐねて、この間のゴールデン街の火事を野次馬しに行ったときの、よくわからない透き通った五月の緑色の風があった。翡翠の色をしている。これらの夜の、草の、結露に湿ったにおいのことを滞りと呼ぶとして、カミキリムシを見たある六月の、薄ら寒い不安感をそれに託しておく。

野菜堪らず越境

もうずいぶん他人の持ち物が部屋に散らかっていて、いくつものそれを見ていると隔たりがゆるくほぐれている気分がする。拾った楽器はこれで二つ目、それと友達のベースギターとパクったオーディオインターフェースBOSEのルーパー、喜ばしくないものはいくつかあって、忘れ物の衣類やバッグに囲まれているとこれぞ借りぐらし。服の大概は親父のお下がりで、トルネードマートのチンピラっぽいシャツは夏場に活用できるのでいまだに置いてある。たとえば侵入されるというか、心を許すというか、ものを置いていくということはそれがある時点で他者が居座っているようなもので、つまりここには何人ものにんげんがひしめいているし、にんげんが管だったころは直通で排泄されるのは常にことばか排泄物だったはずだけど、その名残なのか、ものどもは耐えず埃を吸い込んで生きているし、連続を逸したままで、つまり直線的なかたちで記憶を産出している。建築物はそこに住むものを遠ざけた途端に一気に朽ちてしまうだが、それはにんげんの皮脂が足りなくなってしまうからだそうだ。その合間には建築自身が、筋肉を溶かす飢えた男のように、自己自身のなかで記憶を再生産して、やがてそのひとのことを忘れてしまってそれを捨てられるまでのあいだ、その自体をどうにかして維持しようとものどもが蠢いているに違いない。

火加減の問題。とかく男は料理の度に強火にしたがること。大雑把。境界線を引くに引けない。遠ざけてしまうのは心にあまりよくないから。だから野菜炒めは焦げる。常にそのリスクを念頭に置きながらも、結局は焦げるならもう少しおいしいほうがよかったな、という一介の生活、生活を、ハンマーとか。あとグラスとか。にんげんがひしめいて、ハンマーがある。ハンマーで殴る。泣く。ミーム。管状のそれらミミズのことをなんて呼べばいいだろうか。そのものの自体はあくまでも動かないというレイヤーの外にはなく、しかしもっと焼け焦げた野菜炒めのペーソスに近い。それらには魂が認められていない。動物は動くが魂はなく、石は動かないし魂もない。死んだネコは惨めに死んだけれどそもそも救われているいないの話の中にはいない。死んだネコの灰に死んだネコはいない。死んだネコの灰の山は一粒一粒砂と入れ替えていくと砂山になる。だからこれは野菜炒めではなく、そのペーソスであると言うに相応しい。キャベツが固い。生きるのはつらい(か?)そこまでじゃない。ものどもはぎゅうぎゅう詰め。そして置かれているそのすべての負債がいつ襲いかかるかと言われれば、劇的にやってくるのではなくて、むしろバレないようにしんしんと歩いてくることだろう。その経過は心的な必然であって戸惑うべきことではない、ただ後ろを向いたときに塩の柱になっていることがわかる、その床はボロボロになっているに違いない。

グラデーション

弟に連絡が取れるようにしてくれと電話越しの声が聞こえたのは昼を大幅に過ぎたころだった。地元で麻雀でたいそう羽振りがよろしくなったらしい知人の声は数年前に比べると少し低くなっていた。長閑とした陽の光とかを浴びているにもかかわらず腸の底はもたれてきて、鈍い獣らしい音を立てて、吸っている煙草の灰を一緒に吸い込んでいるような気分だった。あいつ俺に三十万借りようとしてたんだけど、でますます気分が悪くなって、二日くらい伝書鳩を繰り返した。それから知人からの連絡はない。それらの手前で母親から送られてきた弟の成人式の写真を見ているだけに、やっぱり長くはなさそうという漠然とした実感が大きくなる。肺気胸で野球部を辞めて、それからは家で煙を吹いて生きていたような弟だから、案の定親の脛を兄弟ともどもで齧り尽くしている状態だが、たまに訪れる可哀想という感覚自体がどうにも俺としても如何ともし難い。数日もすれば忘れるので、父親からの連絡をほどほどにこなしている間に、台東区らへんで天井を眺めて次の夜勤を待っているだろう弟の姿を想像することはなくなった。

ペンネのゆで方が毎回うまくいかず、近くの業務用スーパーで買い込む度に失敗してデロデロのグチャグチャになったペンネを半泣きで啜っている。ゆで時間がおそらく悪いのだろうとは思う。水に漬けて一時間、とうとう日常的に摂取するペンネに親しくなった。台所は時間の経過と共に新たな生命を生んでいる。ここには宇宙がある。腐臭がする度に寝室に逃げ込むがそれらも無駄なあがきだ。主に畳まれず山積みになった衣類を寄り代とするものども、あのものどもをどうにかするというところから契機である。このものどもをどうにかしないことにはそもそも生活以前の状態で留まり続けるわけ。滞留。どぅむーる。ムール貝を初めて食べたのはサイゼリヤで、神の雫って漫画にふたりともハマっていたからスパークリングワインのデカンタの感想を言い合っていた。うらびれた海岸の砂浜に埋まっている百円ライターのような味だった。そのあとに服を買って、スロットに千円突っ込んで負けた。四分の一の値段だったからまだよかった。総武線に乗り込むときに景色がどんどん重たくなるのがわかった。窓の外で質量を持った夜が横たわっていた。

生まれてから一度も要領よくことが運んだことはなかった。つまりはリズム感の問題。四拍子から五拍子への移行が苦手で、反対に四拍子から三拍子はひとつ減らせばいいだけだから簡単。五拍子になった途端に世界全体が悪意を持った一個人として襲い掛かってくる。三拍子みたいにはいかない、三拍子は基本Dのコードが似合うと思っている、でも五拍子はよくわからない、四拍なら六十進数にも対応可能でだから楽なんだろうとは思う、キックの押し方、ショウリョウバッタ、冬が寒い、涙がしたい、はペソアからの引用、たいそう寒い、三拍子でしか捉えにくい。

カツ丼屋すたどんすた

産業廃棄物同然の生活を行っていると精神が下降してきた。兆候は減ってはいるものの多いのは困る。困るので日記を書く。

正月の賑わいの底には大晦日に友達と見た『四十歳の童貞男』のよさがまだ染み付いていて、神社の境内をくぐるときにもアクエリアスの時代なるハッピーなミュージカルの残響が腹に染みている。お神酒を百円で買って、一息に飲み干すも、胸のオリっぽいしがれた感じは消えない。寝不足。午前三時くらいなのに、人いきれのやたら多い元旦の道は好きだ。嫌いだったことも思い出してみるとそれほどなかった。帰りしなに弟の話をされたので数回ばかり憎しみを泡立たせて、つま先立ちで大吉を握っていった。浮かれ上がっている人間を見ると途端にマシンガンとかチェーンソーとか思いつく限りの残虐な武器で残虐に殺そうと思うことが少なくなったのは、おそらくその憎しみが実を結ばなかったせいだ。もっともそれが実を結ぶとはとうてい思えないが。自分の肉体から剥離していく思春期とカッコ付きの名詞を取り出して、眺めてみたものの、別に完全に消えたわけではなくて不安なんぞ当たり前に、先週のゴミを出すのも忘れているとまた部屋は汚くなるし、部屋が汚い人間はそもそも救われることを許されていないし、そもそも救いがほしいのかほうらというような口調は俯瞰するにキツいものがあるから中絶(投稿後付記:そういえば昨日『デスペラード』を見ていて、バーに散らばった死体でグッチャグチャの床をマフィアの下っ端がモップで拭いているシーンが堪らなく沁みた。アントニオ・バンデラスが好き勝手ドンチャカやってタランティーノが脳漿をトイレ裏の小部屋で撒き散らしていても、やはり掃除はしないといけないのだ。あの下っ端たちが掃除をしなければ、世界は瞬く間に死体まみれになってしまう)

ラブクラフトは人間の根源的な感情は恐怖だと言い、ハイデガーは不安だと言ったが、マイナスの幽体がのべつくまなく這いずって台所を汚していくのはかんべんして欲しいし、それこそ光あれの状態だから俺はアウグスチヌスを支持する。がんばれアウグス。ただオイディプス・コンプレックスから副次的に発生する女が欠損を謂するアレ(アレだよアレ)をいま思い出して、そしたらそういう感じなのかなとか思っている。しかしスタミナ牛丼が食べたい。コンビニのゴミを咀嚼するのはなかなか堪える。炊き出しが近づいてきている。マッハで。群れをなして。人間を見たいという気持ちはそれほどない。妊娠検査薬の結果待ちのあの恐ろしいひととき。飯が三度喉元を通らなくなるような心持ち。既存の設定を集めてパッチワークして人間らしさが形成されていくような気がする。二日目の鍋。三日目は白菜が切れて中断。コンソメリゾットに挑戦。ゴミ。豆腐クリームパスタに挑戦。無理やり食べたけどゲロの味がした。鶏もも肉の白ワイン漬け。白ワインはそもそも適していないしいっそフリカッセにするべきだった。リエットは企画段階で挫折。鶏ハム言わずもがな。

振り袖を着ている人間をたくさん見て去年はヤスタカのタダイベント楽しかったな、と思った。等しく午前三時に、親父のポール・スミスのジャケットに、くりくり巻いた頭を震わせながら、新成人団体を見ながらコンビニの前でカップ蕎麦を啜った。恨めしいという気持ちもなかった。ただ漠然とうらやましいなあという気分だけあった。渋谷は寒かった。去年はところどころで渋谷にお世話になることが多かったと思う。渋谷は、俺の吐瀉物と盗まれた金と飛んだ記憶を抱きしめて寝ているに違いない。金だけ返してほしい。

ピーター・ブルック『バトルフィールド』のジャンベがヤバい

 新国立劇場、開演は七時ごろ。初台駅に着いたあたりですでに道ができはじめていて、初めて行ったのだけど新国立美術館と同じようにどうやら地下鉄の駅からそのまま行けるらしい。演劇は高校のときに地元の高校生が文化コンクールみたいなので寺山をやっていたのくらいしか生で見るという機会がなかったのだけど(いま大学の文化祭で演劇サークルの劇を見たのを思い出した)、ピーター・ブルックもやたらお年を召されているのでこれは見なければという必要性が生じた。そもそも、バガヴァッド・ギーター経由でマハーバーラタを知り、ブルックについては「マハーバーラタを九時間ぶっ通しでやったイギリス人のおじさん」という認識しかなかったので、いま衝動買いした公式パンフレットでその軌跡を見ているところ。会場である新国立劇場コルビュジェめいたピロティ構造の、端的に言えばチョーイカす建築物で、地下鉄のエスカレーターから吹き抜けになった地下階と泉が見えるのがアツい。銘打ちのフォントも美しい。入った瞬間に見える階段のなだらかな勾配がすでに舞台そのもののようで、携帯の電池が切れていたのが悔しかった。住みたい。左右の壁の天辺には過去の衣装がガラスケースに収められていて、それも印象に残った。人の入りは、遅くなってから買ったのに整理番号が十八番だったのでガラガラなのではと危惧したがかなりよく、席も九十パーセント近く埋まっていた。席を探して、折しも二日酔いの発作が生じトイレに駆け込む。コンディションは最悪で、チケットを売ろうかと思ったけれど来てよかった。左の席には二十絡みの演劇サークルらしいニューバランス、右にはミニパソコンで書きものしているベージュのパンプス。席は最前列から二番目だった。アガる。

 開演の前に、ベルが鳴って規則的なアナウンス、同時に舞台の背景がだんだん真っ赤になっていくのがわかる。そもそもマハーバーラタは王家の継承権をめぐる血みどろ地獄絵巻を描いた叙事詩で、ブルックの演劇での死はそこからかなり隠喩を経て翻訳されている。いつぞやyoutubeで見たリア王みたいに首チョンパしないし、原作にあるように手足をもぎ取って血で髪の毛を洗う場面でも、スプラッタさせない。でも、その隠喩の繰り返しとミニマリズムからなる想像の余地がすごかった(これについては言及されまくってた)。パンフレットからの孫引きだと「一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある」とのこと。かっこいい。その意匠を含めて考えるなら、舞台の背景が真っ赤になっていくのはその大地がもはや死者で埋め尽くされているからだ。セリフにも「血で柔らかくなった大地が」うんぬんとあった。ちなみに『バトルフィールド』というタイトルなのに戦場が出てくるのは冒頭と、ビーシュマを看取るそのシーンくらい。この中に出てくる戦場は、記憶に留められたところの、distructionされ尽くされた地平であって、その取り返しの付かないものの後始末についてドゥルヨーダナが悩んだりがんばったりする、というのが主な筋書き。それに挿話が何度も含まれる。

 舞台には体の覆えそうな綿布が数枚、下手にはジャンベと椅子がある。大げさなセットは一切されていない。布はそれぞれ赤、くすんだ茶、黄、などの色で分けられており、生命力や権力、死体や赤子を象徴する。ビーシュマが死ぬ場面で、黄色の布を使ったのはとてもよかった。たとえば僧侶が着る袈裟は、死体から羅生門した衣類が元になっている。やがてビーシュマは全身を黄色の布で覆い(つまりモノとしての肉体になり)、クリシュナの指した方角を見て、ぼくらは彼の魂が天に飛んで行くのを見るのだ。このような想像のなかで行われる劇は何度も現れる。すごい。

 全体を通して言えば、ようやくジャンベのことが書ける、ジャンベがとにかくサイコー。下手に土取利行さんという方が座っていて、この人のジャンベがマジでヤバい。劇中に音楽はジャンベのみで、それでも弦楽器やら環境音やらが聞こえる。気がした。インタビューによるともともと楽器の数はかなりあったようで、それを減らして最終的にジャンベのみに行き着いたとのこと。『バトルフィールド』は土取利行の七十分ジャンベライブとして見てもぜんぜん飽きない。鬼のごときトリルが連打されまくる度に歓声を飛ばしたくなった。特によかったのが山火事のところ、ほんとに山火事が聞こえる、あと終盤のソロ。あれなんかは八十八ヶ所巡礼のライブの時とかもそうなんだけど長いブレイクって拍手のタイミングわかんなくなって白けるみたいなのがあってそこだけが悔しい。ソロ終わって一分くらい静寂。チョーかっこよかったのに。感情の起伏に合わせたフェードインとフェードアウト、役者の演技とジャンベがシンクロして叩かれるのが気持ちよくて始終下手ばっかり見ていた。いちばん冒頭のところでジャンベが鳴った瞬間に「かっこいい!」となるアレ。イントロで持って行ってそのスタイルを七十分失速させずに、しかも内容と調和しながら進行していくのはほんとにすごかった。とにかくジャンベ。とにかくジャンベがヤバい。楽しかった。日曜まで上演中。二十五歳以下は三千五百円。内容についても話したいけど力尽きた。とにかくジャンベ。よかった。

冷やし中空

冷やし中華を食べる間もないままに夏が終わってしまった。おそらく、これはわが阿頼耶識に保存され、死後多大なる負債として現れるであろう。ゴミを出すのを忘れていた。流しはまだ掃除していない。おそらくこれも。巨大なぶっ飛んだスパンで構築されているなにがしかさんによって日常の一切の行為は記述されているに違いないと時たま妄想にふけることがあるが、庚申会のことから見てもけっこうみんな考えているものっぽい。思春期に置いてきた負債をどうやって処理するかが人間のほとんどが思いつきそうな幸福実現法だとすれば、ファウスト博士の行為なんかはとても直截に時間遡行などという手段でもって行われているわけだからなるほど、なるほど、となる。憎しみきっていた我が身をどれくらいのかたちで、冷やし中華に対しての物惜しみくらいにいとしく思えるかというところがないと成功しないような気はする。夏にあったことを書こうとしていたらぜんぶなくなってしまった。いつか食べたことのある冷やし中華の味を必死に思い出しているところ。

自分の身体に張り付いているものは時間を通してだんだん魂に染みこんでいくのだが、幻肢痛というやつがたとえばそういうもので、あと何日も手に触れていない楽器に対して行われるように、魂として保持するということがある。自分の身の回りになるだけ他人を置いておくような生き方は、別にひとりでもできるということで、そのあいだというものこそをどうにかしないとヤバそう。台所並に。受話器と電話機のあいだの接合、男性器と女性器の接合部分、回転する自動ドアに挟まれて死んだこども。切手が明かすのは、通信に常に犠牲が伴うということであり、人間関係はたいへんということではなく、魂同士の連関は川と岩の関係に似ているということ、玉のように磨かれる中でどれだけのものを失ったかということ、むかしは毎年食べていたはずの冷やし中華をもはや食べなくなってしまったということ、その途端に冷やし中華が憤怒相を形容するということ、怒り心頭の冷やし中華がさまざまな責任を要請するということ、それは俺が冷やし中華と対峙するときにしか行われ得ず、あいだにおいてのみ行われるということ。季節の色合いを覚えてしまうと何度も何度も季節を更新してしまうことにはなるまいか、だから銀杏とかは嫌い。というか臭い。こまかく千切った百円のハムのように時間を細切れにしてしまうのは、神がそうはしていないのだからするべきではないのだろう。ものに座標を明け渡してはいけないのだろう、ということで掃除も別にしなくていいのだろう、憤怒相の冷やし中華は俺が時間を保持していること自体への負債で、これから何度も冷やし中華を食べなければならないという要請の現れ。無限に冷やし中華を食べる宇宙軸に位置してしまったからこんな目に遭う。麺類の異様さに耐えなければならない。麺類の不安も抱え込まなければならない。