冷やし中空

冷やし中華を食べる間もないままに夏が終わってしまった。おそらく、これはわが阿頼耶識に保存され、死後多大なる負債として現れるであろう。ゴミを出すのを忘れていた。流しはまだ掃除していない。おそらくこれも。巨大なぶっ飛んだスパンで構築されているなにがしかさんによって日常の一切の行為は記述されているに違いないと時たま妄想にふけることがあるが、庚申会のことから見てもけっこうみんな考えているものっぽい。思春期に置いてきた負債をどうやって処理するかが人間のほとんどが思いつきそうな幸福実現法だとすれば、ファウスト博士の行為なんかはとても直截に時間遡行などという手段でもって行われているわけだからなるほど、なるほど、となる。憎しみきっていた我が身をどれくらいのかたちで、冷やし中華に対しての物惜しみくらいにいとしく思えるかというところがないと成功しないような気はする。夏にあったことを書こうとしていたらぜんぶなくなってしまった。いつか食べたことのある冷やし中華の味を必死に思い出しているところ。

自分の身体に張り付いているものは時間を通してだんだん魂に染みこんでいくのだが、幻肢痛というやつがたとえばそういうもので、あと何日も手に触れていない楽器に対して行われるように、魂として保持するということがある。自分の身の回りになるだけ他人を置いておくような生き方は、別にひとりでもできるということで、そのあいだというものこそをどうにかしないとヤバそう。台所並に。受話器と電話機のあいだの接合、男性器と女性器の接合部分、回転する自動ドアに挟まれて死んだこども。切手が明かすのは、通信に常に犠牲が伴うということであり、人間関係はたいへんということではなく、魂同士の連関は川と岩の関係に似ているということ、玉のように磨かれる中でどれだけのものを失ったかということ、むかしは毎年食べていたはずの冷やし中華をもはや食べなくなってしまったということ、その途端に冷やし中華が憤怒相を形容するということ、怒り心頭の冷やし中華がさまざまな責任を要請するということ、それは俺が冷やし中華と対峙するときにしか行われ得ず、あいだにおいてのみ行われるということ。季節の色合いを覚えてしまうと何度も何度も季節を更新してしまうことにはなるまいか、だから銀杏とかは嫌い。というか臭い。こまかく千切った百円のハムのように時間を細切れにしてしまうのは、神がそうはしていないのだからするべきではないのだろう。ものに座標を明け渡してはいけないのだろう、ということで掃除も別にしなくていいのだろう、憤怒相の冷やし中華は俺が時間を保持していること自体への負債で、これから何度も冷やし中華を食べなければならないという要請の現れ。無限に冷やし中華を食べる宇宙軸に位置してしまったからこんな目に遭う。麺類の異様さに耐えなければならない。麺類の不安も抱え込まなければならない。

セックスオンザ既視

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鶏肉を醤油で煮込む。世知辛いくらいに暑い。圧力釜の底にこべりついたイベリコ豚の残骸を眺めている、うそ。ほんとはカナダ産。腐りかけのキャベツを千(実際は五十)切りにしている視界の先端に浮遊する油が眼鏡に付く、珍しくもも肉、いつもは胸肉なんて買えやしないので、それだけに立ち込める臭気でいやになってくる、板橋の花火大会に行った友達のインスタグラムを眺めている、過去のことで、光景が何日も水でしか洗っていないまな板に反射する、ところどころ汚れている(それは夜のあぜ道)、三人で並んでいる、友情フェラってなんだっけ、真摯さってなんだそれ、そういう感じの話。豚肉で派手に遊んだので、台所は目下わりあい最下層のごちゃつき具合と汚さを見せていて、だいたいパーティーすれば片してもらえたんだけど、どんどんみんな消えていくのは否めないしそれもまあ夏なので。夏なので。人の誕生日を何のためらいもなくお祝いできるようになった、お酒がどんどん弱くなった、記憶はどんどんぶっ飛んで昨日が今日だかあいまいそれは言い過ぎ。手はよくしびれるようになった。せいぜいのところ噴出してきた圧力鍋のはじめだけおそろしい黙示録めいた嗚咽で、このとき圧力鍋の蓋からは気圧変化を間違えたせいで醤油だれが噴出していた、太陽肛門。脱肛。露出した肛門がほんとうに排泄機関としての機能を果たしているだかより今日の飯、手元には二千円しかないし、生活がどんどん物語めいてくるのは思ったよりいままで物語から離れていただけで、単純に居酒屋にひとつ足を踏み入れれば気の利いた話のひとつやふたつくらい耳に挟むことなんて案外かんたんなことなのかもしれない。それでもまなざしやらなんやらによってそれが組み替えられるときのこと、そういうところを何度も何度も反芻して、咀嚼して、つまりサイコーの夏を何回でも繰り返して、何回でも繰り返して、サイコーの夏というのは式年造替に、細胞に似ていて、アンドゥとリドゥを繰り返してギリシャの舟みたいに組み替えてしまうだけのことで、それは昨日の鶏肉のことを考えることでさえなくて、過去と対応させながらもう一個と砂糖大匙一杯足すだけで、最後に残った秘伝のたれ、ぼくらの秘伝のたれ、ああ秘伝のわざマシン、わざか、わざねー、作為的な韻律に毎回戸惑わされている、作為というのはおそろしいもの、魔物、そう夏は魔物、『夏の魔物』というやつはたぶんに冗語法で、夏に魔物が潜むということを考えるからみんな生ハメしたり性器にピアス開けたりするんじゃないだろうか、ぼくはそう思う、思う、われ思う、われサイコーの夏にありとわれ思う、ゆえにわれサイコーの夏にあり、パロディ、夏に同化しようとするとたぶんだめになる、それは夏ではないから、それはもっと遠いものだから、気圧変化で崩れる鶏肉みたいに暑さでやられてしまってもまだ夏ではないから、夏はきっともっと遠くのところにあって、そのかたわらにだけほんとうのビーチがあり、ほんとうの花火があり、ほんとうの熱中症があり、夏の真似事をいくらしたって火を盗んだ罪人のように夏を盗んでしまわなければ意味なんてないのだ。だからガスでいま煮込まれた鳥だけが正しくて、ぼくは祈り続けている、どうかこの鳥がこの夏を過ごさせてくださいますように、わたしをどこか夏らしいところへ連れて行ってくれますように!そうだった、夏でなくてもいいので!それはきっとほんとうにつらいだろうから、こうした紛い物の飯を食べ、紛い物の暮らしをしていっても別に生きてしまうことには変わりはないだろうから、耐え切れないなんて根を上げるのはサイゴンの露商にでも任せておいて、夏をですね、夏をですね、夏をですね!カナダ産豚肉の臭気。

ストロングゼロについて知っている二三の事柄

ア、バアバアバ。2009年である。テトラポッドの間に間にを漂うフナムシの光沢が二桁の予感を知らしめて、ハリーポッターはちょうど不死鳥くらい、俺は城跡の上で酒盛りを続けていたはず、スピークムネモシュネ、スピークムネモシュネ。蜂須賀公は盗賊からの成り上がりでこの城を手にしたというが見渡すとそこまでアメリカンドリームらしくなくて、第一小金持ちの多いこの県では誰も労働には着手しない、だってピケティが正しいんだもん。おさがりのママチャリとプージャーで塾帰りの銀チャを襲撃する。ヘッドフォンではなく携帯のスピーカーからシャカシャカ流れるラッドウィンプス。ああ。セブンスターのべたつく口触りを誇らしげに確かめながら橋を渡って二十分弱、川流れの見えるここでは祖父の語ったはだしのゲンよろしき地獄絵図が思い浮かぶ。端から端までを覆い尽くした人の群れとなると烈河増である。なるほど三大河川として数えられるはいいが、夏場には使用済みのゴムが並ぶばかりで、おそらく原付の数台は落ちただろう、初夏を過ぎるともうすぐ、花火の殻がラムサール条約に中指を立てることになる。いや、正確には結ばれなかった。大橋の新設に住民団体は反発したが、そんなものどこ吹く風、なぜなら大塚製薬そして日亜化学の工場に続く大いなる巡礼路が増えるのである。崇めよ、石原さとみを、崇めよ、ポカリスエットを、住民の主食はカロリーメイトであり、われわれの海馬は青色発光ダイオードに啓蒙されている。ゆえにわれわれの精液は甘い。糖尿病全国優勝である。そして、ゆえにわれわれが手にするのは、かつてもそしてこれからも、糖質ゼロ、プリン体ゼロ、ストロングゼロのみであった。
アディダスのエナメルボストンバッグに詰められた百以上の缶にわれわれは戦き、震え、かつてモーセがそうしたように山を登り始める。なぜなら下界には原ポが蔓延るから。朝刊の原付の音と紛らわしくてマジで困った。からついた笑いとも取れる自転車のブレーキの音と軋むサドルの音。前で運転していた人間の顔をもう思い出すことができない。何人いたっけ。誰がいたっけ。いまなにしてるっけ。なんだっけ。なにがよかったっけ。誰がなにをしてなにを言ったっけ。誰がなにをしてなにを言った結果誰がまたなにを言って飲んでまたなにをして誰がしたっけ。なにを飲んだっけ。山道を踏み越え互いの顔が夜に滲ませられていく。もうすぐ誰も誰でもなくなるのがわかったので、目を瞑って階段を登った。

肥満児が見てる

夕方に銭湯に行った。いつもは靴箱の33番を使うのだが、日曜日の夕方となると行楽を終えて戻ってきた親子やら若者やらでごった返して案の定空いていない。左横の41番にスリッパを入れた。目線の高さと手の高さにちょうど合う位置で、かつ覚えやすい数字かどうかが靴箱なりコインロッカーなりを選ぶときの点になっている気がする。端を選ぼうとすると自分の手を伸ばさないといけなくて億劫なので、そうしない。浴場で自分のからだを見るとサイゴンの下品な紫外線で真っ黒になった肌があった。「ギャル男」と口に出す。鏡のなかのおれも同じように口を動かす。自分のからだが変化するのはおもしろい。弄ばれているのが肌身にそのまま現れるから。
小学生のころは太っていたから、当たり前に服が脱げる友達が羨ましかった。自分のからだが憎かったことなんて言うまでもなかった。二段ベッドの上から落ちて肩の骨を折ってから、ブクブク太っていくあのあいだの恐ろしさと、同時に空腹と、それでも運動をする気にならない怠惰のおぞましさが一緒になって、毎日襲ってきた記憶がある。終わりにかけて唐突に痩せた。体重がそのままで、身長が十センチ伸びた。そのときはわくわくした。たばこと酒とにきびが後ろに控えていることも知らずに。
最近は恐怖や嫌悪よりも漠然とした興味だけになった。苦労をして苦労をしてやっと手に入れた、たとえば筋肉なり体力なりといったものには元から興味がなかった分、かえってそれが一気になくなったりすることの方が被虐的な楽しみになった。目元を何度か眺めていると、皺が増えていてひとりでウケている。そういう夜は、耳元で誰かに囁かれて、そいつの皮膚がパンパンに膨らんでいることに気付く。でももう何も言うことができない。じっと眺めることしかできない。
数年前や数ヵ月前、数日前の自分に憎まれ続けている気がずっとする。他人に憎まれているならまだ話すなり笑い飛ばすなり罵詈雑言を浴びせるなりどうにかしようがあるのだけど、自分に対してはなかなかどうしようもない。その憎しみが見当違いだろうこと含めでどうしようもない。聞いたことのないバンドの話を友達が始める度に永遠の小学五年生たる肥満児が暗闇から裁判官の顔で歩いてくる。じっと眺めることしかできない。そしてその顔がつい先日見たものと同じだったりする。
自分に向かって呪詛を吐き続けているありさまだからこのあいだも泥酔して記憶が飛んだ。それから禁酒を誓ったものの十日足らずで破った。銭湯を出て階段を降りると少し寒かった。帰り道で酒を買った。

成田エスプレッソ

黄緑色のトレーに乗った白色オンリーのサラダの群れを見ていると自らの色彩センスのなさに辟易する。しかしこの食堂のサラダは総じてクソ不味くいかに及第点を選び取るかが問題でして、そうなると無難なコールスローやおそらく不味くなりようのないポテトサラダを選ぶ。偏に肉がほしかった肉は旨いんだ肉はというだけの気持ちで飯を咀嚼しているものの、怠け癖が治らず未だにナイフを右手に持っていて、「育ちが悪いんだよ」と言ったら「親に謝れ」と言われた。その通りだと思う。
一人で飯を食っていたら知り合いがいたけれど気付かないようだった。人がわんさかごった返してるなかでもJAPANと刺繍の入った俺の赤いスカジャンはそうとう目立つはずだけど、とうとう幽霊にでもなれたのだろうか。氷を見せしめみたいに噛み砕いて、トレーを棚に戻して、食器を適当に洗っている最中、去年曲がった歯がしくしく痛む。ドッヂボールをしていて顔面で受けようとしたら盛大に地面とバウンドした。砂利が唇を貫通した。その手前ではブランコを「ああ子供時代……ああ子供時代!」とサンテグジュペリでも暗唱しながら漕ぎ楽しんでいたはずなのに、記憶に残っているのは「銀歯にしようぜ」「いやダイヤモンドだな」「ラッパーみてえじゃん」それと抜糸の激痛。痛みで久々に泣いた。病院を抜けて安田講堂近くのクリスマスツリーを見ているとほんとうにどういうことだろうと思った。そのあとはふて腐れて帰ってシコって寝た。八つ当たりとばかりにそのあとしこたま酒を飲んで記憶を飛ばしたら、また地面に歯をぶつけてひたすら叫んでいたらしい。起きたら知らない門松が隣で寝ていた。

「年下が来て自分が年老いたアピールするやつめっちゃ嫌いなんだよ」って友人が言っていた。若さが相対的なものであってほしくない気持ちというのはある。でも金魚の水槽と同じで新陳代謝させないと若くならないのかもしれない。いきものを育てることには向いていなかった。妹の世話だってしたくなかったのに、魚なんか育てられるわけがなかった。金魚は全滅して、メダカは大概南無阿弥陀仏、トイレに流すたびに地獄だものなあとひとりごちているが、そういうときに決まって灰皿をひっくり返す。悲しいことに娯楽でしかなかった。死ぬ間際に水槽の天辺に向かう金魚どもは貧相な言い方をすれば㈱助けて守護月天、気持ちのインフレがQOLと反比例している。魚の水槽に溜まったゴミのことは考えないでハイボールを飲み続けていたら毎日熟柿のにおいがし始めてきた。かつてもいまもこどもであれた試しがない。しわくちゃに生まれてしまった。

ポンカレーの見える海

地元マァヂ愛してっから、マァヂ地元愛してっから、ということを爆笑しながら話す人間の顔には、常に口の端の皺やらに暗いものがいつまでも付き纏っている。郷里の話なんぞしとうないしとうない!と駄々を捏ねていたものの、その、地元と呼ばれるものに付随するほの暗さやひとつの後ろめたさはなんだろうとは思う。それは上京やバックレに見られるものではなく(少年は虐待を受け~みたいな陳腐な納得をさせるあのプロセスが好きじゃない)、むしろ地元にいるときに本質的に感じていた遠さというか、疎外感というかまあ疎外感なんだけど。中川の家行ったときにポケモンやってたんだけどそんときやっぱルビサファ流行りくらいの感じで、でも長谷川は一個上なんだけど長谷川ん家行ってるときと中川ん家行ったときのルビサファのニュアンスがぜんぜん違うわけ。中川ん家がいいとこだったとか長谷川ん家ではスマブラサルゲッチュやってたとかもちろんそういうとこはあるけど、それでもやっぱり両方人間っぽくなくて、攻略法とかそもそも俺知らねえし、家帰ってまでゲームしたくねえしそれならこち亀読みてえし、ていうか先輩のコウジくんがマジヤバくてさあ、あの人原チャ倒したやつボコしてそのまま川投げたらしいぜマジヤバくね。マジかよヤッバ。つうか長谷川家の前に心スポあんじゃんアレやっぱ出んの。出る出るマァヂ出る。うっわー。文化的な会話じゃない!文化レベルが低い!とかそういうのじゃないんだ、たぶんそれも同じことなんだよ、コウジくんヤベえのとシェイクスピアヤベえの別にあんま変わんないし、そういうのよりもっと遠くて、長谷川が今はパチンコ屋でバイトしながら地元の俺らの代のと麻雀打ってるみたいなところにあるこの遠さっていうか、時間のせつなさとか生老病死とかじゃなくて、たとえば飲んで次の日にする暗い話とかでも、どこかなんとも言えなく遠くて、当事者性が失われているというか、どうしたらいいのかよくわかんないっていうか、バスケの顧問の顔とか財閥息子とか思い出してもアレがどう考えても俺自身の生だと言えるかと思えば少なくともそうではなくて、それは多分に固有のものでなくてはいけないみたいな思い上がりがまずあるのはわかる、わかる、わかるとしてもだ、そう本来あった生、本来あった生はそれほどまでにテンポが一定付けられていなくて、いわばぜんぜん当たらねえジャグ連十二分の四で、毎回千円ずつジワジワ蝕まれていく感じで、地元がどんどん死んでいく。いっぺんになにもかもぶっ壊されやしなかった。すげー緩慢に、スロウリーに、すろぉぉぉぉぉうううううううりいいいいいいいいに、きっかけはなんでもよくて、ポコッと消えるのが頻発する。そういう感じだ。スマブラみたいな派手なエフェクトが出ればいいなと思ってる。

夢でなし

久々に長い夢を見た、もう書いたので別に書かないけれど、よかった、夢の中で旅行するのはなんとも楽しい、けれど薄暗さがずっとあった、起きても暗いままだった。ビジネスホテルのカーテンの遮光性の高さは、普段日光でレムを阻害されてうううと起きるよりも不快だ。起きたらそのまま夜だったかのような焦りを覚えさせて、カーテンを引っ張って、隙間からホームレスが缶のたくさん入った自転車を引くのや、市営のバスが走るのが見えると、安心して二度寝して、そのまま思った通りになる。大概ビジネスホテルを使うときは部活の遠征や軽い旅行以外にはないので、早々に、十時には部屋を出なければと思うし、パリパリのシーツが体に合わないので寝付けない。父は数年前までホテルマンだったが、実家の俺の部屋は壮絶な様相を呈しており、その度に自らの職業が無下にされているような憤りを覚えていたのだろう、ファミコンひっくり返したり、たまに俺にビンタしたりしていた。お陰でいまも部屋が汚い。掃除なんかしてやるものかという反動形成が大いに作用している。いいえ。自身の単なる怠惰に過ぎません。
ペテルブルクの貧しい青年のような、あるいはリスボンの会計士のような、あるいはブエノスアイレスの詩人のような、そんな夢を見られたら楽しいものだろうか、そこまで書いて、夢のなかの通過地点にリスボンが含まれていたことを思い出して苦笑している。そこにある起き抜けの薄暗さを捨象している間に、何匹か魚が水槽でぷかぷか浮いている。トイレに魚を流す度に、友人の顔が浮かんだり沈んだりするので、尿石ごとブラシで削って、下水にまとめて叩き込んだ。そこから立ち上ってくるすえた臭気が夢と呼ばれるものだ。枕の下に流れる誰かの水音を聞いている。わが部屋に堆積した無数の夢でなしが、恨みがましく押し入れから覗き込んでいるのが見える。