(汗)

 実家は海沿いの神社の裏にあって、朱色のペンキで塗りたくった鉄の階段を上らないと居室に入ることができない。階段の天辺から転げ落ちる夢をこどものころに何度か見た。母親に聞いてみるとやはり落ちたようで、傷はなかったがたいそう泣いていたらしい。靴を結ぼうとした拍子に自分の体が宙に浮く、そのどこにも着かない感覚が厭で堪らなかった。起きてみると冷や汗は尻まで染みていて、これもまた不快で、そのたびにグズグズしたピカチュウのブリーフのパンツを振りほどこうとするのだがうまくいかず、かれこれ十余年ばかり張り付いている。タグに書かれた名前には怠惰とある。

 自分のことを怠け者だと言うようなまねをしたいわけではなく、少なくとも部屋の隅にはじっと体育館座りをしたそいつがいるのをよく見かける。心身を二分割して指差して、わたしと何度も記述して遠ざけてしまえればどれほど楽だろうと思っていたら、そうでもなかった。暗い目をした少女が爪を噛んでいるなどとは言い過ぎで、実際は陽気な中年男がパン一で独り言を言いながらこちらをガン見しているくらいのイメージ。パンツにプリントされたピカチュウの電磁波によって俺と中年男は精神を共有しており、眠る前になるとよくふわふわタイムくらいのニュアンスで「そうだ寝ようよ」とか頭の中で言う。起きても言う。度合いによって中年男の数は増減し、ひどいときには六畳に満杯の中年男が犇く光景もある。その度にアルミホイルで結界を作りそのリンクを断ち切ろうとするのだが、淀んだ汗でもって決壊する。ギュウギュウに詰まった中年男性の加齢臭を嗅ぎながら、俺は老いる。しかしある夜中に目が覚めると、ポケットピカチュウを手にしたまま、リセットボタンに何度も爪楊枝を刺しているのに気付いた。毎晩俺はそのまま浮遊し、ピカチュウのありえたこと、初恋、坂の下の公園、前歯、奥歯、カツ丼、オムライス、の中に入ってるチキンライス、を際限なく観測させられる。怠惰は爆笑して腹を掻いている。裁かれるのを先延ばしにするためにひたすらリセットボタンを押しまくっていると、手元に転がる見知った顔。

セイベベ

 物心が付いた気が未だにしない。中空に自分の魂がふわふわと浮いたままで、日常的に幽体離脱しているからこのような身体なのかなあなどと体育祭で行進ができずに端っこの方に追いやられていたころ、思った。身体が不器用で、などと言い出すと、それは誰が、と言われ、なにと比べ、と言われ、じゃあこれは、と言われ、はい、と黙る。はい、はい、灰になるとハイミナールは似てるというダジャレでもって文章を回そうとしたけど薄汚いのでやめた。こどもは七つまで人間ではないというのが有名だけど、そのあいだこどもの魂は中空に位置していて、常に第三者的に、そして確実に第三者であるからこそ感覚が鋭敏であるはず。失っちゃったのねアタシたち……という居酒屋であと一週間後くらいに語られるあのゆるい感傷が、冷めて見えるし他人事めいているのは、むしろそれが厳然と自分事に他ならないからだ。いわゆる天使主義的虚偽です。そういったものをむしろ受け止めきれないか考えているあいだにうどんを茹でるために沸かした湯が沸騰する。手元にあるの二千円くらい。光熱費はまだない。ウギョヒーッ。ウヒイイーーッ。ウジャジャゴジャグジュジュジュジー。グエッヘ。エッホ。オエッ。……しかし、こどもであるとかおとなであるとかそういう話をすることで名前を付けてラッピング、ジバニャンが黒衣でもって見せ付けてくるのは痛々しい一人称だ。いかんせんひっついているので統御できるものかと思っていたらそうではない、おれがおれに馴染んでいない。誰が、なにと比べ、じゃあこれは、はい。うどんの光臨をべたつかせて天使はスプーンの上に乗る。

エンドレス反吐

麦酒が剥奪するのは間違いなくそれ、復唱しろ。日毎にどんどん「あーなるほどーこれねー」という風にさまざまなものが二次的に想起するのだろうけど、そうして総称されるところのものは幽霊であるし、つめたい。アイスクリーム食べたそのあとの頭痛のことは考えないようにしてる。だいたい万力で頭を締め付けられるところからものごとは発生している。しかし実はそれはシェビラーハケリームよろしく、ジグソーパズル状の頭蓋が互いに反発し合うという逆の作用によって成り立っていると見ていい。革袋に詰められたところの糞尿は革袋がなければただ悪臭を放ってその内消えるだけなので、締め付けられるのではなく破裂、パンとかポンとかポップコーンラブのニュアンスできみたちの膨張係数が増加する。吐き戻す瞬間の紅潮した顔でも、バルーン現象起こす子宮でも、お好きなように。電車が入る。不ァァァァン。

夜、しこたま飲んで帰る最中のかなしみ(笑)めいたものは記憶の本来的性質を酒というエーテルがわれわれに見せたに過ぎなくて、東西線のホームで座って女の尻眺めてるときもなぜこのままというようなことくらいは考える。ただ見せてくれなくてもいいのでは、と思うより前に車内アナウンスで罪状が速度で述べられるのでだめ。くるしみに対して「知らない」と言い続けるのはペテロっぽくてとっても人間っぽい。このように彼らは形容詞的にしか形容的にしか動詞であることができない。常に終止で。・とも言う。散らかった音の炸裂に対抗してゲロを吐こうと思ったら犬と目があったのでひとまず中断。地下鉄の切断より切断されている。こねくてぃかっと。

麺類インジ阿頼耶識

 「兄ちゃん、これ開く?」駅前の石作りのベンチの上で友人と座ってたばこを吸っていたら横で座っていた爺さんから唐突に声をかけられた。テカテカ光った好色そうな顔と雑な洋服に少したじろいだが、異臭もしないし安そうなキャリーバッグも汚れてなかったので浮浪者ではないはず。「オイル入れたいんだけど開かなくって」と言うので、差し出されたオイルライターを外そうとしたら存外に固い。ぜんぜん開かない。友人に手渡したところ火打石を中に畳んだら簡単に外れた。そこから、爺さんにどう見ても100円のオイルライターを3000円で売りつけられかけたり、どん兵衛とバットをもらったり、爺さんの昔話を聞いたり、要はいろいろあった。「明日電話するから飲みに行こう、奢ってやるから」と爺さんは言って、おれたちはそこを後にした。電話はまだ来ていない。三日前の話。

 

 しばしば幽霊に逢う。見知った人の後姿だったり横顔だったりにおいだったり身に着けているアクセサリーだったりがちらついたときにそれは現れる。目が悪いから、誰が誰だかよくわからなくて、この間は電車で隣に座った人間の感じでいろんなことを考えた挙句、結局出るときに見るとぜんぜん想像していたのと違ったというのが三連続くらいで起きた。知らず知らずに漫画のキャラクターに誰かをなぞらえるあの行為について、歌われていると思うことについて、あるいはあるいは。それらの目の前に立たされ「ほー」と息を吹きかけられると、魂にあてられて少々つらい。40つらいくらいはある。ぷしゅけーっ。しかし幽霊はなにごとも語らないので、安い中華屋でラーメン啜ってる最中くらいは、なにも聞いたつもりにならなくて楽。(『音は事物のあらゆる顕現を二重化する』とのことですが、二重化されたところの片方が幽霊であるというのは考えるまでもありません。乞食の夢が、おまえの夢が)発語の兆候感じ取るたびおののき以て対峙させられラーメン啜る思い出横丁、想起がひとたび傷口を抉り出せばズルズル鳴って、おれは一人称を失い永遠に三人称たるものとして浮遊させられる。中空に浮かされた麺類の気持ち。あの爺さんが持っていた家族の写真が、いずれも六年前もしくはそれ以上の歳月の隔たりを持っていたことについては口を噤むが、まあ。

ウィンドウズのエラー音

 グースカ六畳の半分を占領している弟の顔を見ながら家を出ると快晴だった。腹の真ん中がじくじく痛んだまま上野に向かう。財布の中に十円しか入っていないような有様だったので、「炊き出し 東京」で調べて上野なら……という塩梅である。だいぶ余裕を持っていたので思っていたより早く着いて、噴水の近くで座って本読んでたばこ吸ってたら宗教勧誘にあった。「仕事も見つかるから」「どんどんよくなる」「面倒は見れないけど」最後が甚だ余計。面倒見てくれ。金くれ。ヒルズに住ませろ。五十がらみの肥えた女の鶏みたいに高い声が不愉快だった。そしてその最中「今日は上野でやってないよ、浅草でやってる」「マジすか。浅草って遠いすか?」「遠いね」などの問答があったため、空腹の体のまままた歩き始めるのを余儀なくされた。歩きながら「なんでこんな目に」って二十回は言った。お賽銭入れて「いいことありますように」って言ったんだけど。賽銭投げてる最中に坊主が金の処理してたからか。あのクソ坊主。無神論者に関して、素朴に、不幸の度量が当人にとって耐えられないとき無神論に走るんだろうと思ってるんだけど、しかしあのときの「なんでこんな目に」はもはやヨブの嘆願と言っても過言過言華厳の滝。ちゃんとけごんって打った。道中、帰り道だろう野球部の中学生が死ぬほど輝いていた。主述文は主語と主語になりえなかったものどもの格差を構成する。要するにめっちゃつらい。

 隅田川沿い、炊き出しの列に混じっているときはキムタクが起業するドラマのことを思い出しながらおれはキムタクだって思いながら参列していたのだけど、ボランティアが言う「仲間」というその二人称に対してすごい闇を感じた。「仲間」、それはたぶん気が立ってる奴に対してのエクスキューズだとか、上でも下でもなく平等であるということを示すための手段でもあるし、それはきっと正しいのだと思うのだけど、よくわからなかった。もやもやした。恣意的な記憶を辿ってみると、飯食うまで「みなさん」で飯食い終わって立ち退き反対云々の話をした辺りから「仲間」って呼称に変わってた気もする。スカイツリーが駆逐したどうこうを考えるつもりはないけれど、それにしても浮浪者がどこに消えていくのかわからなくて不安になった。雑に言えば、生まれたときと同じところであるのは確か。ちなみに配給された飯はけっこう旨かった。南瓜とソーセージとお新香を入れて炊き込んだ飯だった。ごちそうさまでした。

 ふらふらしながら鶯谷辺りまで戻って、そろそろ足が張ってきているのに気づいて、何度かガードレールの上に腰掛けて休憩を繰り返した。苦しんでるっぽいと思うと幾分かマシになった。でもそのあといろいろ思い出して心が死んだ。たぶんこれは死ぬまで治らない。まなざしをメタ化していくこと(山田花子みたいに)が一定数の楽しさを与えてくれたとしても、それは金銭の購いとなんら変わることがない。ましてやその度量が与えたものに対してあまりに少ないだろうことは、考えなくても自明だ。途中で寺に寄って座った。破裂したようなツラのカップルが鈴をジャラジャラ鳴らしていた。日は落ちかけていた。足の痛みが少し引いたので、歩くことにした。

うねり大感謝祭

 軽みを帯びた鳥の息遣いが岩礁の間に間に満ち充ちる。だがここは岩礁ではない。それは息吹の遠のきから推測され、ぼくは耳を欹ててて女の口に横たわっている。右目を。横へ。カーテンのしどろもどろにたゆたう肉体の内臓のはらわたの器官の構成されたところの粒子の一粒一(潰されていく群れ群れ)。同語反復、「ぁ」と漏らすより早く、岩礁の裂け目から流入してくるひかりひかりひかり。光は! ひ、と、が踏み倒した火のことを水は語り続ける、その要請は女の手足のもつれに語られ(ルーズな水音)、催促状のことをきみは閉じられた目や口に語らせ(ルーズな水音)、やがて見える歯は石灰質に変質す、る。そのうすく発光する歯が浮き出してきみの口腔から逃亡する数十秒の間隙さえ与えやしないで回転を続ける回転を回転回転回を回転する、水音。

 ……上昇か下降かの区別の付かない鳥たちに(翼を持たぬものはやがて、)指を向けて水は笑い続ける。水面の中心に浮かび上がる歯。雨が降りしきるころに黒ずむ、虫歯と名指されるが、匿名の歯痛を食らわされる(ゆるやかな溶解。目を塞ぐシーツに生えた黴が昨日の大洪水を物語るひかりひかりひかり、ひだり、めにはえたひ。女の涎がぼくの顔にかかる。うっすらニョキニョキ伸びていく歯で光景が埋まりかけていつ投げたのか忘れた。歯茎が付け足されていく辺りで、指は返済のために縮んでいく。

 息継ぎに吐息が交じってむせかえる。ちょうど墓の裏側を過ぎた辺りで(息継ぎをするように)もう一度咳をして帰路に向かう。夜半だった。蝉はまだ鳴いているので夏だと思う。そこにおいてまだ夏はサイコー足りえるはずだ。きっと。たぶん。おそらく。暫定的には。希望的観測においては。希望的? 希望があるのではなくいるのなら今頃埋立地の肥やしになっているだろう。股を広げて。

 ……丸ノ内の辺りを軽く過ぎて「東京だからね」の響きを咀嚼してオエってなるその作業がそもそも嫌になるというかダサいというかぜんぜんナウくないというかなにを期待しているのかけっきょく期待していたのかというのをグルグルグルグるとわーるさせている。とろわ。車窓は暗い。voirとの連関を持って、光景には常に垂れ布がかかっていて、それは小陰唇のかたちをしている。丸ノ内。薔薇が象徴学的に女性器でありダンテが見た円形の薔薇においてゲーテ的なドウタラがナントカしてるとかはともかくとして、毎月お堀の周りの池が赤くなるのを想像してやめた。こわい。瞬きする女性器からは黒ずんだ涙が出る。こわい。目は閉じられるが、耳は閉じられない。こわい。「垂れ布が落ちる」口に出したところで停車。ホームドアが開く。血の涙がドアから毀れ出る。……

 「楽でしょ?」と鳥型のおばちゃんに言われたので「ええ」と返した。「あーでもさっきね、座ってたじゃない、そこ。そこいつもあたしらが座ってたとこでさっき違うとこ座ってたんだけど、なんか落ち着かないのよいつもの位置じゃないと」「あーすいません」「なんかわかんないけど日ごろ座ってるからなんだろねえ」定位置に。ガムテープははじめ真ん中でアタリをつけて引く。そのあと外枠に張って補強する。01はホワイト。それ以外は左の箱に。袋から出ているものは丁寧に畳んで入れること。コンクリートの梁に頭をぶつけても我慢すること。規則性が際限なく存在を断絶することでその都度自明にわたしであるところのわたしを生かす。あと工場勤めだったヴェイユのことを思い出した。かわいい。棺桶のように開いた段ボールに詰められた無数の女物に射精したくなった。

 

 空の炊飯器は天空を素描するのでもやしがおいしい。豆付きである。夜の陰核が月。溢れる活力。三度まで言うが呪われろ。